本編

【Act Ⅰ】
八五郎(以下,八)「こんちは」
隠居(以下,隠)「八っつぁんじゃねえかい,どうしたい,お上がり」
八「今ねえ,そこの横丁で聞いてきたんす」
隠「何を」
八「隠居んとこにタダの酒があるっての」
隠「そら聞き違いだなあ,灘の酒って言ったんだろ」
八「灘?俺タダって聞いちゃったよ,ナダ,タダ。大して変わらねえや,一杯飲ませろ」
隠「飲ませろってえ口の利き方はないよ。酒の一杯でもご馳走になろうなんてえには,遊芸の一つも出来ねえといけねえな」
八「ドロドロって出ていくの」
隠「ありゃあユーレイだよ,ユウゲイ!例えばだよ,踊りなんぞ踊れるかい」
八「だめだ,俺はどうも踊りってえのはねえ,ああいうものをやると目が回っちゃうから」
隠「じゃあ,三味線なんか弾けるかい」
八「弾けねえな,車なら引くけどな」
隠「唄は歌えるかい」
八「どうも喉がよくねえんだな俺は」
隠「じゃあ碁,将棋は」
八「じれったい」
隠「じゃあ何にも出来ねえんだ」
八「お陰さまで」
隠「出来ねえでお陰さまってのがあるかい。じゃあまあ,仕方がない,お世辞の一言も言えねえといけねえなあ」
八「何でえ,そのお世辞ってえのは」
隠「向こうの人を持ち上げるんだよ」
八「持ち上げるの?あんまり大きな奴はいけねえけどねえ,普通の人間だったらあたしゃあ力があるから」
隠「いや,手で持ち上げんじゃない」
八「どこで持ち上げんの」
隠「口で持ち上げる」
八「口で?後ろへ回って襟首くわえて」
隠「何つったらわかるんだい,仮にだよ,表でしばらく会わない人にバッタリ会ったとする,やさしく声を掛けるな。こんちは,しばらくお目に掛かりませんでしたがどちらかへおいでになりましたか。向こうでもって商売用で下の方へとでもおっしゃったら,道理でたいそうお顔の色がお黒うございます,あなたは元が白いから,土地の水で洗えば直に元通りになりましょう,ご安心なさいまし,そういう風に一生懸命においでになっておりますれば,お店のほうはご繁盛,従って旦那の信用は厚くなる,誠におめでたいことでございます,てんで」
八「へえ,そう言えば一杯おごるかい」
隠「おごるな」
八「おごんなかったらお前さん立て替えるかい」
隠「立て替えやしねえ,おごんなかったら仕方ないからここで,奥の手を出すな」
八「奥の手って,喉から手ェ出すの?」
隠「いや,向こうのねえ,急所をつかむんだよ」
八「いきなり!」
隠「何つったらわかんだよ,このねえ,向こうのどてっ腹をえぐる」
八「出刃包丁か何かで?」
隠「いや,口でえぐる。何だよ,まあ,早い話が歳を聞く。えー,誠に失礼なことを伺うようでございますが,あなたのお歳はお幾つで。向こうでもって四十五だとおっしゃったら,四十五にしちゃあたいそうお若く見えます,どうみても厄そこそこでございましょう」
八「へえ,それで一杯おごるか」
隠「大抵おごるよ」
八「へえ,そんなこと出来ねえこたないよ」
隠「やってごらん,違ってたら直してやるよ」
八「向こうから人が来たら聞いてみりゃあいいんだよ,ね。こんちはっと,しばらくお目にぶら下がりませんと」
隠「何だいぶら下がるっての,掛かるだよ」
八「掛かったってぶら下がったって大して変わんねえや」
隠「大して変わんねえって,掛かるでおやりよ」
八「そうすか。こんちは,しばらくお目に掛かりません,どちらの方へずらかって」
隠「おいでになって」
八「ああ,おいでになっておりましたか,向こうでもって商売用で下の方へつったら,道理でてえそうツラが真っ黒だと」
隠「何だい,ツラってのは,お顔の色がお黒くなったって丁寧に言いな」
八「お顔の色がお黒くなった,あんたなんざ元が黒いから」
隠「いや,元が白いから」
八「元が白いから,土地の水で洗えば直に元通りにならあ,安心しろ!」
隠「安心なさいましと丁寧に」
八「安心なさいまし。それでおごんなかったら,ここんとこで,向こうのどてっ腹えぐっちゃう」
隠「やってごらんよ」
八「誠に失礼なことを伺うようでございますが,あなたの歳はお幾つで,向こうでもって四十五だったら,四十五にしちゃあてえそう若え,どう見ても百そこそこだと」
隠「何だい,そのヒャクってえのは」
八「百じゃないの」
隠「厄だよ」
八「厄?」
隠「四十二が男の大厄,向こうが四十五だってえの,四十二だって言うから,まあ,三つ若く言うんだな,一つでも若く言われて,やな気持ちのする者はない,一杯ぐらいはおごる」
八「なーるほど。おメエさん,ツラはまずいけど言うことはうまいね」
隠「それが,余計なことだってんだ」
八「だけど,こいつぁ,うまくいかないよ」
隠「どうして」
八「うまく四十五が来てくれりゃあいいよ,五十が来たらどうすんの」
隠「四十五,六とでも言っときな」
八「ほう。六十が来たら」
隠「五十五,六」
八「七十が来たら」
隠「六十五,六」
八「八十が来たら」
隠「七十五,六」
八「九十が来たら」
隠「その順でやんなよ」
八「順がわかんねえから聞いてんじゃねえかい,これまで教えてその先教えねえなんて,そんなコスイ話があるかこんちくしょう,教えねえんなら教えねえでいてみろ,家に火ィつける」
隠「危ねえなどうも,まあ,九十だとおっしゃったら八十五,六だな」
八「続いて一足」
隠「何だい,イッソクってのは」
八「百の符牒さ」
隠「人間の歳は百歳」
八「白菜」
隠「ハクサイじゃない,ヒャクサイ。ま,めったにそんなに生きる方ァないが,まあ,九十五,六とでも言っとくんだな」
八「二百で」
隠「そんなに生きる人ァないよ」
八「あ,ついでだからもう一つ聞くんだけど」
隠「何だよ,ついでってえのは」
【Act Ⅱ】
八「あっしの隣りの竹んとこへね,赤ん坊が生まれちゃってね,晦日みそか)前の苦しいところを,長屋中の付き合いだとか何とか言いやがって,銭集めに来やがって五十銭取られちゃったんだ,悔しいから一杯飲みにいってやろうって思ってんだよ,みんなね,うめえこと言っちゃおべっか使って一杯ご馳になるんだけどね,俺そんなとこ行って口利いたことはねえだろ,やっぱり赤ん坊褒めんのも,しばらくお目に掛かりませんでした・・・」
隠「そんなこと言う人はない,竹さんとこのおかみさん,お腹が大きいと思ったら赤ちゃんがお生まれになすったかい」
八「お生まれなすっちゃってね,こっちは五十銭ずつふんだくられなすっちゃった」
隠「何だよ,ふんだくられなすったってのは。まあ,あたしは竹さんところのお子さんは,見たことはございませんけど,紋切り型ってのは決まってるよ。まあ,普通の挨拶でいくんだな」
八「何でえ,その普通の挨拶ってえのは」
隠「まあ,いいお天気だったら,こんちはいいお天気でございます。やなお天気だったら,こんちはうっとうしいようなお天気でございます。承りますれば,こちらさんにお子さんがお生まれだそうで,おめでとうございます,と言って中へ入って,赤ちゃんを見せてもらって,たいそう良いお子さんでございます。おじいさんに似ておいでになってご長命の相がおあんなさる。栴檀は双葉より芳しく,蛇は寸にしてその気を現す,どうかこういうお子さんにあやかりたい,あやかりたい」
八「へえー,それいっぺんに言うの」
隠「だんだんに」
八「こんちは,いいお天気のようなうっとうしいようなお天気でござんす」
隠「いいお天気ならいいお天気でおやりよ」
八「そうっすか,こんちは,いいお天気でござんすと,うけ,うけた,まがりますれば・・・」
隠「いや,承りますれば」
八「ああ,承りますれば,うん。こちら様にお子さんがお生まれだそうで,どうも,ご愁傷さま」
隠「おめでとうございますって」
八「ああ,おめでとうって,中へ入って赤ちゃん見せてもらって,どうも,たいそう,たいそうよい,よい,よい,良い子でござんす。洗濯は」
隠「いや,栴檀
八「ああ,千段の石段は愛宕山よりまだ高い,蛇は寸にしてミミズを飲む,どうかこういうお子さんに蚊帳(かや)吊りたい,蚊帳吊りたい」
隠「まるっきり違うよ」
八「これだけ覚えれば用はねえんだよ,また来るよ」
隠「まあ,一杯つけるから」
【Act Ⅲ】
八「そんなの飲んだらいま覚えたの忘れちゃうよ。俺,忘れねえうちにどっか行って,やっつけてくっからさ,また来る,さよならっ・・・どうもうめえこと覚えちゃったね,しばらくお目に掛かりませんでしたがってんでね,一杯おごらせることを覚えたって,ううん,誰か来なくっちゃいけねえな,おっ,来た,来た,向こうから色の黒え野郎が来やがったねえ,どっか海なんか行ってきたのかなあ・・・こんちは」
○「こんちは」
八「しばらくお目に掛かりません」
○「失礼ですけども,あたしはあんたに会ったことがないような気がする」
八「そうそう,そう言えば俺もこんちくしょう見たことないよ,たいそうツラが真っ黒で」
○「大きなお世話だい!」
八「行っちゃったよ,ああ,丸っきり知らねえヤツはダメなんだなあ,知ってるヤツァ来ねえかなあ。あっ,来た,伊勢屋の番頭,おーい!番頭さーん」
番頭(以下,番)「いよー,これはこれは町内の色男!」
八「あれ。向こうで持ち上げてんね・・・へへ,こんちは!」
番「ああ,こんちは」
八「しばらくお目に掛かりません」
番「夕べ床屋で会ったよ」
八「床屋で会った,変なところで会っちゃったね,それから,ずっとしばらく」
番「変だね,どうも。今朝,湯で会ったよ」
八「よく会うねえ,じゃ,こないだ中はちょいと」
番「おお,商売用で上(かみ)のほうへ」
八「上?俺が聞いてきたのは下だよ,上下込みでやっちゃお,道理でたいそう・・・ツラが真っ黒で」
番「そんなに黒い?」
八「黒い,真っ黒,どっちが前だか後ろだかわからないよ。でも,そういう風に一生懸命においでになっておりますれば,お店のほうはご繁盛,従って旦那方の信用は厚くなると,つけ上がって帳面ヅラごまかすな」
番「おい,やだよ」
八「どうでえ,一杯おごるか」
番「おごらないよ,そんなこと言われて」
八「おごらない?おごらないの。いいよ,こっちは奥の手ってえのがあるんだから,ドテッパラえぐっちゃう」
番「おい,危ないよ」
八「えー,誠に,誠に失礼なことを伺うようではございますが」
番「あらたまって何聞くんだい」
八「あなたの御歳はお幾つで」
番「どうも,往来の真ん中で歳を聞かれると,めんぼくないね」
八「何?」
番「歳を聞かれると,めんぼくないってんだよ」
八「世の中にめんぼくないって歳があるか。野郎,ごまかすな」
番「ごまかしやしねえ」
八「白状しろ」
番「何だい,調べられてるみたいだよ,イッパイですよ」
八「イッパイ?バケツに?」
番「バケツ?だからこれだけ」
八「四つか」
番「四つだってよ,ずっと上だ」
八「四百!」
番「その間で四十だよ」
八「四十。四十にしちゃあたいそう・・・ありゃ,四十五から上ずっと聞いたんだ,下聞くの忘れちゃった,番頭さん,年回りは悪いよ」
番「どうして」
八「見てるうち影が薄くなる」
番「おい,変なこと言うなよ」
八「すまねえけど四十五になってくれ」
番「なってくれって,勝手になれるかい」
八「なれるかいって,四十五だって言ってくれりゃあいいんだよ」
番「そうかい,じゃあまあ四十五だ」
八「四十五にしちゃあ,たいそうお若く見えます」
番「当たり前ですよ,ほんとは四十だから」
八「どう見ても厄そこそこだ」
番「何を言ってるんだい!」
【Act Ⅳ】
八「殴ってきやがった。あ,そうか,向こうが四十だってえの,お厄だって四十二で二つ余計言っちゃったんだ,ダメだこりゃあ,大人は逆らいやがって,赤ん坊にしよ。赤ん坊なら逆らわねえしな,殴られるような気遣いはねえ,第一こっちは五十銭取られてんだ,木戸銭払ってるようなもんだな,よし,竹んとこ行ってやろう・・・ここだ。こんちはー」
竹「よう,こないだは,義理貰ってありがとう」
八「いえ。う,うで,うでたまご」
竹「持って来たのか」
八「いや,あの,あったら食いたいと思って」
竹「うちにそんなものないよ」
八「うけたま,うけたまりまが,まが,まがり,受け取りをすれば」
竹「承りますればってえんじゃねえのか」
八「あっ,そうそうそれから何てんだ」
竹「お前さんが言うんだよ」
八「あ,そう,俺が言うんだ。こちら様に,お子さんがお生まれだそうで,どうもお気の毒で」
竹「何を言ってやんだい,こっちゃあ,めでてえって喜んでんだい」
八「ああ,そうか」
竹「おめえ何しに来たんだ」
八「あの,赤ん坊を褒めに来た」
竹「赤ん坊を褒めに来たんなら,そこで何か言ってねえで,上がれよ,こっち奥に寝てるから,見てくれ」
八「お,どうも,ご免よ,俺ね,赤ん坊褒めさせると一人前なんだ,あの,この屏風の中かい。そうかい,ほう,大きいねえ」
竹「大きいだろ,うん,取り上げ婆さんもそう言ってたよ。大きいってんでね,ウチ中で喜んでんだよ,大きく生んだほうがいいんだってよ」
八「どうも,大き過ぎたなあ,じいさんに似てるねえ」
竹「血筋は争えねえもんだな,よくじいさんばあさんに似るって言うじゃねえか」
八「そっくりだねえ,この頭のハゲ具合ねえ,皺の寄り具合ねえ,歯の抜け具合。え,いや,あの,このねえ,どうも,よく似てるねえ,そっくりだ」
竹「そりゃあ親父だよ,今朝から頭が痛えって寝てんだよ」
八「ああ,そうかい,じいさんかい,あんまりそっくりで変だと思ったよ。赤ん坊にしちゃあひねこけちゃって,第一,赤ん坊が入れ歯はずして寝てるわけはねえな」
竹「当たり前だよ,その向こうだよ」
八「ああ,このケットーに包まってんのかい」
竹「そりゃあお鉢だよ」
八「お鉢かい」
竹「その向こう,そこに居るだろう」
八「あっ,こんなとこに落っこってやがった」
竹「落っこってって,寝かしてあんだよ」
八「小せえなあ。こりゃ育つかな」
竹「何を言ってやがんだい」
八「はあ,こりゃ何だか人形みてえだな」
竹「うまいこと言うねえ,おめえだけだ,人形みたいだって言ったのは,こないだ,留公のヤツ来やがってねえ,サルのようだなんつって行きやがったよ。どこが人形みたいに見える?」
八「見えやしないよ,お腹を押すとキュキュッて泣くよ」
竹「おい,よせよ,壊しちゃうよ」
八「かわいい手してやがって,もみじみたいな手だねえ」
竹「うめえこと言うねえ,おめえだけだよ,そのもみじみたいな手だって」
八「小さいねえ,こんな小せえかわいい手で,よく俺たちから五十銭ずつ取ったな」
竹「赤ん坊が取ったんじゃないんだよ,俺が貰ったんだ。いいよ,おめえにだけ返すよ」
八「返さなくったっていいんだよ。俺はこの子を褒めてんだ」
竹「だから褒めておくれ」
八「えー,あたくしは,竹さんとこのお子さんは見たことはございませんけど」
竹「そこで見てんじゃねえかよ」
八「ああ,これはあなたのお子さんですか」
竹「俺の子だよ」
八「ああ,そうかい,えー,おじ,おじ,おじいさんを焼いて」
竹「焼いて?」
八「ふかしてか。蒸して。似てだ,おじいさんに似て,何でも煮てか焼いてだと思った。お,おじいさんは煮ても焼いても食えねえ」
竹「当たり前だよ」
八「ご,ご長命丸(ちょうめいがん)に,仁丹に,清心丹(せいしんたん)に中将湯(ちゅうじょうとう)の相がござんす。洗濯は二晩で乾くでしょう。蛇は寸にしてミミズを飲む,どうかこういうお子さんに蚊帳吊りたい首吊りたいってんだ,どうでい,わかったか」
竹「さっぱりわからない」
八「俺にもわからないんだがね,どうも,こんがらがっちゃったね,こりゃ。相手は赤ん坊だ,殴られる気遣けえはねえや,やっつけろい。しばらくお目に掛かりませんでしたがね,どちらの方へおいでになりましたか?下の方へ?道理でお顔の色が・・・赤いね。一杯飲んだのか」
竹「赤けえから赤ん坊っていうの」
八「ああ,赤けえから赤ん坊,黄色けりゃあ黄だんだ。そういう風に一生懸命においでになっておりますれば,お店のほうはご繁盛,従って旦那方の信用は厚くなる,誠におめでたいことでございます。どうでえ,うまくいったろうおめえ,こんなうまくいくとは思わなかったなあ,何とか言えよ,おめえ,おごれよ,おい,一杯飲ませろ,何とか言えよ」
竹「おめえ,その子は何にも言わないよ」
八「何にも言わないの」
竹「まだ生まれて七日目だよ」
八「おー,初七日か」
竹「お七夜ってんだよ」
八「お七夜ね,ときに竹さん,このお子さんはおいくつで」
竹「赤ん坊の歳聞かなくてもわかってんだろう。まあ,一つだなあ」
八「へえェそれはまたお若く見える」
竹「よせよ,一つで若けりゃいくつに見えるんだい」
八「どう見てもタダでございます」

プロローグ

誕生日が1月2日というお年寄を,けっこう見かけます。実は,1月2日生まれの人は,本当はそうでない場合があるそうです。昔は歳を“満”ではなく“数え”で勘定していました。生まれた時点で1歳ですね。そして,その年が明けると2歳。なので,12月に生まれた子は,すぐに2歳になってしまいます。これでは可哀そうなので,翌年に誕生したことにするわけです。この『子ほめ』は“数え”のシステムの上で成り立っています。

本編

【Act Ⅰ】
大家(以下,大)「ああ,八っつぁんか。こっち上がっとくれ」
八五郎(以下,八)「へえ」
大「遅かったじゃないか。さっきだろう,ばあさんが呼びに行ったのは」
八「ええ,大家さんのことだから小言だろうと思って・・・いや,こっちのことで。すみません。何だか話があるって」
大「いいから,まあ上がっとくれ。この長屋もな,独り者も何人かいるが,いつまでも一人でいたんじゃしょうがねえ。お前は長屋でも一番しっかりしているから呼んだんだが,お前にな,カミさんを持たしてえと思ってな。あたしの遠縁にあたる娘(こ)なんだけども,嫁さんを世話しようと思うがどうだい」
八「大家さん,話ッてえのァそれですか」
大「そうだよ」
八「で,なんですか。あッしに世話してくれるてえのは,やっぱり人間の女なんですか」
大「あたり前だよ。あたしの遠縁にあたるんだ」
八「あたるってえけどさ,当たりゃいいけど,外れやしねえかな」
大「お前,そりゃ器量言ってんのか。まあ,十人並以上だね」
八「え?」
大「まあ,いい女だよ。ちょっと小柄でね。下ぶくれで,色は白いしね」
八「へええ,女ッぷりはいいんですか。歳は?」
大「ばあさん,あの娘はいくつンなったィ。ああ。二十五だそうだ」
八「二十五?へへへッ,ちくしょうめ。脂がのってやんな」
大「おい,秋刀魚じゃないよ。生れは京都なんだ。両親はとうにもう亡くなってしまって,一人きりでな。長い間,お公家さんの屋敷に奉公していたんだ。先月こっちィ出て来たんだけどもな。どうだ,お前すぐもらう気はないかい」
八「そりゃもらいますよ。歳が二十五で女ッぷりがいいってんだからねえ。もらいますとも」
大「そうかい。あのな,もうそれとなくちゃんと見合いもすんでいるんだ」
八「見合いがすんでる?本当かい」
大「忘れたかな,去年の夏だ。家の前に涼み台を出して夜すずんでいた時に,お前,湯の帰りだって寄って,色々話をしてったろう。そこで,脇にいた女を覚えてるか。暗かったから,はっきりもわからなかったろうが,その女の人なんだがね」
八「ずいぶん略式の見合いだな。覚えがありませんや」
大「あのあと,むこうでこういう風に言うんだよ。今まで長い間屋敷奉公していて,これから嫁に行って,姑・小姑があって,機嫌気づまをとるよりもだな,ま,貧乏は承知だ。末長く可愛いがってくださる,本当の正直な働きもんならばと,相手じゃ望みなんだから」
八「ああ,ええ」
大「なにしろねえ,お前には過ぎもんだよ。針仕事も読み書きもできる。それに,夏冬の道具一通りは持ってきてくれる」
八「本当かい。何から何までうますぎらあな。夏冬の道具ってアンカとウチワかい」
大「それじゃ茶番だよ。ただ一言,ちょっと注意をするけどね。傷じゃないんだけどもね,ちょっと」
八「話がうますぎた。そんなにそろった女があっしンところへ嫁に来るはずァねえと思ったんだ。傷ッてえのはなにかい。横ッ腹ィヒビが入ってんのかい」
大「徳利じゃない。つまり傷というのはな」
八「はァはァわかった。寝小便する」
大「だまって話を聞きなさい。言葉がちょっとな」
八「ぞんざいなんですか」
大「ぞんざいじゃない。京都のお屋敷者だよ。丁寧は丁寧なんだが,それもよすぎてよくわからないときがあるんだ」
八「何でえ。言葉が丁寧なのはいいことじゃねえか。わからないのは大家さんが悪いんだ」
大「そうかよ。あれで三,四日前か。表で会ったんだ。するてえと“今朝(こんちょう)は土風(どふう)激しゅうて小砂(しょうしゃ)眼入(がんにゅう)す”なんてんだなぁ」
八「そうだろう」
大「お前,わかるのかい」
八「わからねえが,立派なことを言って感心だ」
大「わからなくて感心する奴があるか。私も後で考えてみたら“今朝(こんちょう)”つまり今朝(けさ)は,“土風激しゅうて”ひどい風で,“小砂”小さい砂がナ,“眼入す”目に入るってことらしいんだ」
八「はあ」
大「私も返答に困った。仕方ないから“スタンブビョウでございます”と返したよ」
八「何です。そりゃ」
大「脇を見たら,道具屋にたんすと屏風があったから,それを引っくり返したんだ」
八「そんなことを言ったって通じるもんか。リンシチリトクッて言わないと」
大「リンシチリトク?七輪と徳利かい」
八「そう。でも,そんな事ァいいですよ。もらいますとも。えッへへ,早くツラァ見てえな」
大「なんだ,ツラとは。まあ,お前が言葉がぞんざいだから,一緒になれば丁度よくなるだろう。そうか。ばあさん,決まったよ。日を見るから暦を持ってきておくれ・・・うゥとさ。いつにしよう・・・おやおや。八っつぁん,困ったな。当分,いい日がないよ」
八「隣へ行って別の暦を借りてきましょうか」
大「どこのだって同じだよ。どうだい,来月の十五日は日がいいけど,都合は」
八「来月の十五ン日?そいつァまずいなあ」
大「ッとなにかい,都合悪ィのかい」
八「いえ,あッしァ都合などないんだけどもね。えッへ,もらうもんなら早い方がいいんだい。どうだい,今夜あたり」
大「うふッ。どォする,ばあさん,今晩だとよ。えェ,きょうなら馬鹿に日がいいんだよ。それもそうだね。“善は急げ”ッてえこと言うから。そいじゃな,よォしッ。お前の望み通り今晩輿(こし)入れしようじゃないか」
八「腰入れ?腰もねえ,そりゃいるけどねえ,やっぱり顔を見ねえと情が移らねえんだけどなァ。腰だけもらってもしょうがねェ」
大「あたり前だい。すいかじゃあるめいし。じゃおばあさん,すぐ,むこうィ行ってくれ,ェえ?ああ“都合で今晩,婚礼(しき)を上げます”と。むこうは女でな,いろいろ仕度は長えだろうから,すぐ行っとくれよ・・・八っつぁんね,本来ならば,うちが仲人なんだから,おばあさんと二人でお連れするのが本当の話なんだ。うちはどうも二人っきりでいろいろ用もあるし,ことによるとあたしが一人でお連れするから,そこを勘弁しておくんなさいよ。それからな,隣のばあさんにお願いして,仕度してもらいな。おッと,待ちな,待ちな。こりゃあたしのほんの心尽しだ。身祝いだ。仕度の足しにしとくれ」
八「大家さん,なにかい,金はいってんのかい」
大「そうよ」
八「だって,あの,店賃(たなちん,家賃)の借り,三つたまってるんだィ」
大「お前さん,店賃は一生懸命働いて入れておくんなさいよ。雨露しのぐ店賃は。そりゃァあたしも遠慮なしに頂戴する。こりゃお前にあげるんだ」
八「ああ,そうですか。じゃ,これ返さなくていいんですね」
大「あたり前の話だよ」
八「どうもすィませんね。じゃ,遠慮なしに,これ頂戴しますよ。じゃ,待ってますよ。ごめんなさいましッ・・・はッ,ありがてえありがてえ。女房ォ世話してくれるッてんだからね。おおうッ,おばあさん,お早よッ」
【Act Ⅱ】
隣の婆さん(以下,隣)「八っつぁんかい。まだ仕事に行かないのかい」
八「うん,きょう休んだ」
隣「いけないよ。お前さん,仕事怠けちゃ」
八「えへッ,勘弁してくんなよ。今日かかァもらうんだい」
隣「なんだって。おかみさん貰う?誰が」
八「俺がだよ」
隣「あらッ。そんな話聞かなかったね」
八「家主が仲人でもってね,とんとんと話が決まってね。えッへへへ,今夜やって来るんだよ。生れが京都のお屋敷者,器量が十人並以上,言葉が馬鹿ッ丁寧ッてえのがね。どうもこのたびはおめでとうござんす」
隣「それはこっちで言うんじゃないかね。そォかい。何かお祝いしようか」
八「うォッと,そんな心配いらねえよ。心配はいらねえけどよ,頼みがある。これからね,ひとッ風呂浴びて,頭ァ綺麗にしてくるんだ。すまねえけど家の掃除から万事,仕度してくんねえか。やっぱり家主ァ話ィわかるね。“小言ァ言う,酒ァ買う”だ。いくら入ってるか知らねえけどよ,ほら,銭くれたよ」
隣「お金を放るもんじゃないよ。じゃこれ開けていいかい,ェえ?あらあら。これで十分に仕度が出来るじゃないか」
八「そうかい」
隣「あァあ,出来ますとも。第一,八っつぁん少し余るよ」
八「余る?こいつァありがてえな。じゃ余ったらそっくりおばあさんにあげるからさ,地所買って家でも建てなィ」
隣「なに言うんだい。この人は」
八「・・・どうもお世話さまッ」
隣「八っつぁんかい?おおゥ綺麗ンなった。早くお家ン中へ入ってごらん」
八「どうもお世話さま。よッこしょと。おっそろしい綺麗ンなりやがったね。これを言うんだな,“男やもめにウジがわく”ッてえのァ。やっぱり一軒の家ァ女がいなくちゃいけねえんだな。えェと,すっかりもう仕度が出来上がってんのか。うう寒び。火でもおこして一服しようかな。七輪をここィ出してと。火種を貰いに行くのゥ面倒くせえな。猫が出入りしてる壁ェ穴が開いてるよ。この穴へ十能(じゅうのう)突ッ込んで。お隣のおばあさん,すまねえ,火ィおこすんだ,これィ火種ェくんねえか」
隣「しょうがないねえ,そんなとッから十能ォ突き出しちゃあ。壁ェ落ちるじゃないかよ」
八「立つのァ面倒くせえんだよ。これかい,火種てえのァ。蛍の尻じゃねえかよ。もっと大きいやつを。あとで返すよ。うふふふ,おばあさん怒ってやがら。よッと。へへへッ,こうやって待ってる間が楽しみだな。今までは自分で火ィおこして飯の仕度よ。寝るんだってそうだい。寒いときなんぞォ,冷てィ膝をだっこして寝たんだけども,これからどんなに寒くッても,湯たんぽも炬燵(こたつ)もいらないね。仕事がすんで帰って来ると,どんなこと言やがんだろね。言葉が丁寧なんだから,入口へ両手をついて“お帰りあそばし”とくるよ。“ご飯の仕度しときますから銭湯(おゆ)ィいってらっしゃいませな”しゃぼん箱に手ぬぐい出してくれるよ。ひとッ風呂浴びて帰って来ると,そこは女房の働きだ。ちゃァんと燗徳利がつけてあるぜ。やがて飯ンなるね。お膳を真ん中へはさんでよ,“八寸を四寸ずつ食う仲のよさ”。かかァ向こうの俺こっち。俺の茶碗ァでかい五郎八(ごろはち)茶碗てやつで太え箸でもって,ざァくざくとかッ込むよ。タクアンのコウコを威勢よく,ばァりばりとかじるよ。かかァちがうぜ。朝顔なりの薄手の茶碗で,象牙の箸なら本寸法だ。口をおちょこにしてよ。綺麗な白い薄い前歯でもってポォリポリとかじンだろ。ポォリポリのさァくさく,さ。ふふふッ,俺のほうじゃ,ざァくざくのばァりばり。かかァのほうじゃ,ポーリポリのさァくさく。と今度ァ箸がお茶碗にぶつかってチンチロリンと合いの手が入るよ。チンチロリンのポーリポリのさァくさく。ばァりばりのざァくざく。チンチロリンのポーリポリ。ばァりばりのざっくざく。チンチロリンのさーくさく,ばァりばりのざァくざく!」
隣「なんだい,八っつぁん,どうしたんだい」
八「いえ,おまんま食うとこの稽古だよ」
隣「何をしてんだい。んな稽古することはないよ」
八「へへへ。ばばあ,やいてやんな。でもねえ,そう仲のいいことばかりありゃしねえからなあ。たまには夫婦ゲンカもしなくちゃなんねえやな。仕事から遅く帰るてえと“まあ,あなた,今日は大変遅うございましたが,どこかお楽しみでございましたか”なんてね。余計なこと言うな,男の働きだ。どう遅く帰ろうが俺の勝手だ。なんてんで一つくらいポカンと張り倒そうかな。ふふ,大人しいから泣くね。うう,うう,うううー,うーうっうっう!」
隣「八っつぁん,どうしたんだい。誰かいんのかい」
八「いえ,夫婦ゲンカの稽古」
隣「そんな稽古するやつがあるかい」
八「あ。ばばあ,穴からのぞいてやがら。さあいけねえ,俺の家はこれ一ト間ッかねえんだっけな。今夜ッからここへ枕ァ並べて寝ンねをすると,ばばァがちょいちょいのぞくと。あ,これ,いけねェ,なんか貼っちゃお。なんだ,ちっとも火ィおこらしねえじゃねえか。おばあさん,火がおこらないよ。ェえ,おこらないはずだ?七輪の口が向こう向いてる?あ,変だと思ったんだ。おっこしょッと」
【Act Ⅲ】
大「・・・おい,おい,八っつぁんや」
八「あッ,大家さんですか。どうも先ほどは」
大「うっかりしちまったがね,きょう町内に寄合いがあるんだよ。ちょっとこっちァ早いけどな。ひとつ先にやろうじゃないか。花嫁さんお連れしたよ」
八「へいッ,そこにいるんすか。荷物は?あとから届くんすか。戸袋の陰にいるんですか。ようよう待ってました」
大「なんてこと言うんだ。さあさあ,こちらへお入り。じゃいいかい,ほんの盃のまねごとだけだ。いや,おめでとう。まあ幾久しく添いとげとくれ。じゃ“仲人は宵の口”ッてこと言うじゃないか。あたしァこれでお開きにするからね」
八「大家さん,もう帰っちゃうんですか」
大「おいおい,よく覚えておきな。仮にもこういう場所なんだ。“出る”だの“引く”だの“帰る”ッてのァ縁起が悪いだろ。で,あたしが帰ることを“お開き”と言ったんだ」
八「と,帰らねえことは“おつぼみ”?」
大「“おつぼみ”とは言わないよ」
八「と,なんですか。大家さんがお開きンなっちまうと,あとは二人ッきりだい」
大「そうだよ」
八「あと,どォしたらいいんだろね」
大「これでまあ,盃は済んだんだ。お前のカミさんとなったんだから」
八「ええ」
大「お互い,自分の,ん,まあ,勝手にするがいいやな」
八「“勝手にするがいい”ッたって。困ったなあ,きまりが悪ィや」
大「お前,きまりが悪ィてえガラかい」
八「だってね,初会だからね」
大「馬鹿め,初会てえのあるかい。長屋の近づきはな,明日ばあさん連れて歩くんだからな。こういうがらくた者なんだよ。ひとつよろしく頼みますよ。はい,ごめんよ」
八「行っちゃったよ。もうこれでいいのかい。あっさりしてやんだな。あッ,どうぞその座布団を,まあ座布団敷いておくんなさいよ。しっくり返してさ。いや,家に座布団一枚ッかないんですよ。そのうちにねえ,仕事の帰りにお前さんが敷く赤ェやつを買って来ますから,それまで我慢してね,いいから,いいから敷いておくんないよ。今帰ったおじいさん,あれ親類なんですって?うちの家主でねえ,あっしァ親父の代からご恩があるんですよ。まあ,こっちの話もいろいろ聞いたでしょうけどもね,縁あって,まあうちィ来たんだ。こんな汚ねえところだけどよ。あっしだってね,いつまでこんな所ィとぐろまいちゃいねんだ。そのうちにねえ,一生懸命かせいでよ,表通りへ出る算段はしてえるんだがね。まあそれまでねえ,なんか不自由で気に入らねえこともあンだろうけどよ。お互いさまにね,ケンカしねえように,末永くよろしく,ゥヘッヘヘ,お願えしますよ」
嫁のお清(以下,清)「せんぎょくせんだんに行って,これを学ばざれば,金たらんと欲す」
八「始まったッ,コンチョウが。“金太郎干す”ゥ?家にねえんだけどもね。実はね,あッしもそそっかしいが,大家(じい)さんもそそっかしいんだよ。歳は二十五ッて聞いたんだよ。かんじんの名前聞くの,うっかりしちゃったんだ。名前ぐらい言っとくもんだね,ねえ。あッしは田中,八五郎ッてんスがねえ。あの,一体あんた,名前なんてえンです」
清「自らことの姓名を問い給うか」
八「いえ,家主が清兵衛ってのは知ってますが,あなたさまのお名前を願いたいんで」
清「自らことの姓名は,そもそも我が父は京都(きょう)の産にして,姓は安藤名は慶蔵,字(あざな)を五光。母は千代女と申せしが,三十三歳の折,一夜丹頂鶴(たんちょう)を夢見,わらわを孕(はら)めるが故にたらちねの胎内を出でしときは,鶴女鶴女と申せしが,それは幼名成長ののち,これを改め,清女と申しはべるなり」
八「それ,あなた一人の分ですか。すみませんがねえ,今のをみんな紙に仮名で書いておくんなさい・・・どうも。うひー,こりゃ長えや。えぇ,ミズカラコトノセイメイワ,ソモソモワガチチワキョウノサンニシテ,セイワアンドウナワケイゾウ,アザナヲゴコウ。ハハワチヨジョトモウセシガ,サンジュウサンサイノオリ,イチヤタンチョウヲユメミ,ワラワヲハラメルガユエニタラチネノタイナイヲイデシトキワ,ツルジョツルジョトモウセシガ,ソレワヨウミョウセイチョウノノチ,コレヲアラタメ,キヨジョトモウシハベルナリ・・・チーン。お経だよ。どうも,驚いたな。これじゃひとッ風呂浴びて来ようって時でも大変だよ。おーいミズカラコトノセイメイワ,ソモソモワガチチワキョウノサンニシテ,セイワアンドウナワケイゾウ,アザナヲゴコウ。ハハワチヨジョトモウセシガ,サンジュウサンサイノオリ,イチヤタンチョウヲユメミ,ワラワヲハラメルガユエニタラチネノタイナイヲイデシトキワ,ツルジョツルジョトモウセシガ,ソレワヨウミョウセイチョウノノチ,コレヲアラタメ,キヨジョトモウシハベルナリ,手ぬぐいを取ってくんな。湯が終わっちまうよ。まあいいや,習うより慣れろだ。寝ることにしよう」
【Act Ⅳ】
清「・・・あァら,わが君。あァら,わが君」
八「んん,もう朝かい。なんだ,まだ夜中だよ。あァあ,眠いなあ」
清「いったん偕老同穴(かいろうどうけつ)の契りを結びし上からは,百年千歳(ももとせちとせ)とも君,心を変わらせたもうことなかれ」
八「え,カエルがどうかしましたか。ネズミはいるかも知れないんですがね。また明日にしておくんなさいな」
清「あァら,わが君。あァら,わが君」
八「へいへいへい,今度は朝か。いやもっと寝坊してもかまわねえんだよ。ん,わが君?おい,わが君ッての,俺かい。うははッ,こりゃ驚いたな。なにか用かい」
清「白米(しらげ)の在処(ありか)はいずれなるや」
八「えェ。俺,今まで独り者でも洗濯だけはちょいちょいしたつもりなんだけどもなあ。シラミなんぞいねえはずだけど」
清「私(みずから)が尋ぬる白米(しらげ)とは米のこと」
八「あ,米をシラミてえのかい。色が白くて小っちゃいからかい。じゃ麦はナンキン虫てえのかい。あの隅っこにあるだろ。みかん箱が。ううゥん,それそれ。それ家の米びつなんだ。頼むよ。ぐう」
振り売り(以下,商)「えェェえ,ネギやネギ。ネギや岩槻ねぎ。ねぎやねぎ。あァ,ねぎやねぎ」
清「のうのう,門前に市をなす賤(しず)の男(おのこ)。おのこやおのこ」
商「へえ,お早うごぜえます。ちょっと風邪をひきまして熱がありますんで,のこのこしてえるんですがね。あのゥ,お呼びなんですか」
清「その方がたずさえたる鮮荷(せんが)のうちの一文字草(ひともじぐさ),一束(ひとつかね)価(あたい)何銭文なるや。おつけの実にせんとぞ思う」
商「大風なカミさんだな。これ,あの,おかみさん,ねぎッてえもんなんですが,これ一束(いちわ)五百文なんで」
清「なに五結(ごけつ)とや。召すや召さぬやわが君にうこごう間,門の石根(せきね)に控えていや」
商「へえェへえェッ。てッ,なんだい,この家ァ。モンノセキネとやらに犬のフンが落ちてんじゃねえか」
清「あァら,わが君。あァらわが君」
八「あァ,眠いな。また起こすのかい。ェえ?さあ弱った。言葉がわからねえ。なんか買うのかい。銭がいるのかい。そこィぶら下っている,腹掛けのどんぶり。おおッと,もっとこっちだい。それが腹掛けッてんだ。隠袋(かくし)が有んだろ。それがどんぶりッてんだい。そん中ィ銭が入っているから,買ってくんねえか。それからねえ,勘弁してくんねえな。その“わが君”てえの。友だちが遊びに来てね,いまに“わが君の八っつぁん”てえアダ名がついちゃうからよ。まあ,すまねえ。ゆっくり寝かしてくんねえ。ぐうぐう」
清「あァら,わが君。あァら,わが君」
八「あァあ。またはじめたよ。しょうがねえな,寝つくと,わが君わが君って。一体,今度は何の用があるんだい」
清「もはや日も東天に出現ましませば,早々ご起床召され,嗽(うがえ)手水(ちょうず)に身を浄(きよ)め,神前仏前に御灯明(みあかし)な供えられ,ご飯召し上がってしかる可(びょう)存じたてまつる,恐惶謹言(きょうこうきんげん)」
八「うふッ,飯を食うことが恐惶謹言?じゃあ酒を飲んだら“酔って〔仍って〕管(くだん)〔件〕の如し”か」