お仲入り(into六代目春風亭柳橋)

お仲入り  Vol.3
“早熟の天才”六代目春風亭柳橋
  明治三十二(1899)年〜昭和五十四(1979)年 <東京>
落語藝術協会を創立したのが三十一歳の時でした。“四十,五十は鼻たれ小僧”といわれる落語界。そこにあって,今の東京の落語二大団体の一つを立ち上げるのですから,並大抵の才覚ではなかったと思われます。以後,会長であること四十五年(のち,顧問)。創立五十周年だけは見届けたいと願いつつ,その寸前に鬼籍に入ります。


1.同世代屈指のスピード
志ん生文楽圓生,金馬,可楽・・・1900年前後に生まれて,CDなどで今も私達を魅了する名人達です。この中で最も早いスピードで出世したのが柳橋でした。十一歳で初高座を踏み,十八歳で真打。同時に春風亭柏枝を襲名します。これから約四年間の柏枝時代に隆盛を築き,後の三代目桂三木助といった弟子もつきます。寄席のお客さんが最も多いのは正月の“初席”。柳橋は,当時二十代の前半でありながら,初席で三軒バネ(一日に,三つの寄席で全てトリ)をしていました。
誉めたのは東京のお客さんばかりではありません。その柏枝時代,大阪に行って『子別れ』を演じた柳橋に,これを聴いて感動した上方の人がこういう歌を贈りました。「江戸っ子の 腕で打ったる 鎹(かすがい)は 浪花の空に 柏枝喝采」。


2.人力車で掛け持ちする子
少年時代から,夕方の五時頃に出勤,家に帰ってくるのが十一時過ぎという生活を送りました。やっと覚えた三つ,四つの噺をもって何軒かの寄席を掛け持ちするのですが,当時の移動手段は人力車。身につけているものも羽二重,縮緬を使った上等な着物でした。
ところで,親の方の心境はどうだったのでしょう。実は,柳橋の両親は自分の子が落語家になることに反対でした。もともと,この子を帝国大学に入れる夢を持っていたようです。そのため,柳橋は当時としては珍しく,幼稚園に通っています。そこは誠之小学校付属幼稚園といって藩校の流れを汲み,東京でも指折りの所だったそうです。


3.「私は生涯,柳橋さんのようにはなれないと思った」
これは六代目圓生の言葉です。この他にも「末恐ろしい。文楽(八代目桂文楽)よりも大物になると思った」と語っています。若い頃,下谷台東区)の寄席・六三亭で,柳橋が『子別れ』,後に上がった圓生が『寄合酒』を演じたのですが,柳橋の上手さに面食らった圓生はシドロモドロになってしまったらしいのです。
やはり,といいますか柳橋は時流を感じ取る力も優れていました。古いイメージの古典落語を次々と改作していきます。『掛取万歳』を『早慶戦』に。『うどん屋』を『(中華)そば屋』に。『くしゃみ講釈』は『音楽会』に・・・・・・。当時は新しいメディアであるラジオにも,進んで出演しました。


4.晩年のこと
売れに売れた柳橋ですが,かなり権威にもこだわった人といえます。「落語藝術協会」という名前からも,落語=芸術という考えを持っていたことがわかります。それに,落語家は普通“師匠”と呼ばれますが,柳橋は“先生”と呼ばせています。メディアに関しても,NHKの専属となり民放には一切出演しませんでした。
年を経るにつれて権威志向が強まるようにみえる柳橋ですが,人気の方は落ちていきます。楽屋は序列によって座る位置が決まりますが,かつて自分より下だったはずの噺家が,メインの火鉢の前に座っていました。
人気が衰えた直接の原因は,高座で軽い噺しかしなくなったこと。時には,噺でもなく『とんち教室』(柳橋がレギュラーのNHK人気番組)の裏話だけで終えてしまっていたことがあるようです。最後は肺炎のため東京警察病院に入院,そこで亡くなります。


5.結論!
柳橋について不思議なのは,子供時代から青年時代にかけて人気が右肩上がりだったのです。私達が寄席へ行く時,もし高座に子供が出てきて落語をやれば,それが上手くてもそうでなくても,面白いと思いますよね。子供が舞台に出て何かやるだけで,お客さんは笑います。柳橋の他にも,子供の頃から高座に上がっていた人はいますが,ほとんどが,年をとるにつれて珍しがられなくなってしまいました。
力量は本物だった柳橋。力をつけた要因としては,ライバルの柳家金語楼(藝術協会副会長)の存在も大きかったようです。この人は五百余編という落語を創作し,それはどこか今の桂三枝師とイメージが重なります(実際に吉本とも提携していました)。柳橋金語楼は追いつけ追い越せといった風に,落語を時代の先端に持っていく努力を続けました。
柳橋の落語を一度も聴いたことがないと,なんだか柳橋は“鼻もちならない”芸なのかな,と思われる方がいるかも知れません。そうでなく,お爺さんが優しく語りかけてくれるような感じが,きっとします。落語を全く知らない友人から“何か聴いてみたいと思うけれど誰がいいか”と訪ねられる時,私は師の『時そば』(この噺で昭和二十四年度 放送芸術祭賞)などを薦めます。入口としては最高だと思います。