お仲入り(into六代目春風亭柳橋)

お仲入り  Vol.3
“早熟の天才”六代目春風亭柳橋
  明治三十二(1899)年〜昭和五十四(1979)年 <東京>
落語藝術協会を創立したのが三十一歳の時でした。“四十,五十は鼻たれ小僧”といわれる落語界。そこにあって,今の東京の落語二大団体の一つを立ち上げるのですから,並大抵の才覚ではなかったと思われます。以後,会長であること四十五年(のち,顧問)。創立五十周年だけは見届けたいと願いつつ,その寸前に鬼籍に入ります。


1.同世代屈指のスピード
志ん生文楽圓生,金馬,可楽・・・1900年前後に生まれて,CDなどで今も私達を魅了する名人達です。この中で最も早いスピードで出世したのが柳橋でした。十一歳で初高座を踏み,十八歳で真打。同時に春風亭柏枝を襲名します。これから約四年間の柏枝時代に隆盛を築き,後の三代目桂三木助といった弟子もつきます。寄席のお客さんが最も多いのは正月の“初席”。柳橋は,当時二十代の前半でありながら,初席で三軒バネ(一日に,三つの寄席で全てトリ)をしていました。
誉めたのは東京のお客さんばかりではありません。その柏枝時代,大阪に行って『子別れ』を演じた柳橋に,これを聴いて感動した上方の人がこういう歌を贈りました。「江戸っ子の 腕で打ったる 鎹(かすがい)は 浪花の空に 柏枝喝采」。


2.人力車で掛け持ちする子
少年時代から,夕方の五時頃に出勤,家に帰ってくるのが十一時過ぎという生活を送りました。やっと覚えた三つ,四つの噺をもって何軒かの寄席を掛け持ちするのですが,当時の移動手段は人力車。身につけているものも羽二重,縮緬を使った上等な着物でした。
ところで,親の方の心境はどうだったのでしょう。実は,柳橋の両親は自分の子が落語家になることに反対でした。もともと,この子を帝国大学に入れる夢を持っていたようです。そのため,柳橋は当時としては珍しく,幼稚園に通っています。そこは誠之小学校付属幼稚園といって藩校の流れを汲み,東京でも指折りの所だったそうです。


3.「私は生涯,柳橋さんのようにはなれないと思った」
これは六代目圓生の言葉です。この他にも「末恐ろしい。文楽(八代目桂文楽)よりも大物になると思った」と語っています。若い頃,下谷台東区)の寄席・六三亭で,柳橋が『子別れ』,後に上がった圓生が『寄合酒』を演じたのですが,柳橋の上手さに面食らった圓生はシドロモドロになってしまったらしいのです。
やはり,といいますか柳橋は時流を感じ取る力も優れていました。古いイメージの古典落語を次々と改作していきます。『掛取万歳』を『早慶戦』に。『うどん屋』を『(中華)そば屋』に。『くしゃみ講釈』は『音楽会』に・・・・・・。当時は新しいメディアであるラジオにも,進んで出演しました。


4.晩年のこと
売れに売れた柳橋ですが,かなり権威にもこだわった人といえます。「落語藝術協会」という名前からも,落語=芸術という考えを持っていたことがわかります。それに,落語家は普通“師匠”と呼ばれますが,柳橋は“先生”と呼ばせています。メディアに関しても,NHKの専属となり民放には一切出演しませんでした。
年を経るにつれて権威志向が強まるようにみえる柳橋ですが,人気の方は落ちていきます。楽屋は序列によって座る位置が決まりますが,かつて自分より下だったはずの噺家が,メインの火鉢の前に座っていました。
人気が衰えた直接の原因は,高座で軽い噺しかしなくなったこと。時には,噺でもなく『とんち教室』(柳橋がレギュラーのNHK人気番組)の裏話だけで終えてしまっていたことがあるようです。最後は肺炎のため東京警察病院に入院,そこで亡くなります。


5.結論!
柳橋について不思議なのは,子供時代から青年時代にかけて人気が右肩上がりだったのです。私達が寄席へ行く時,もし高座に子供が出てきて落語をやれば,それが上手くてもそうでなくても,面白いと思いますよね。子供が舞台に出て何かやるだけで,お客さんは笑います。柳橋の他にも,子供の頃から高座に上がっていた人はいますが,ほとんどが,年をとるにつれて珍しがられなくなってしまいました。
力量は本物だった柳橋。力をつけた要因としては,ライバルの柳家金語楼(藝術協会副会長)の存在も大きかったようです。この人は五百余編という落語を創作し,それはどこか今の桂三枝師とイメージが重なります(実際に吉本とも提携していました)。柳橋金語楼は追いつけ追い越せといった風に,落語を時代の先端に持っていく努力を続けました。
柳橋の落語を一度も聴いたことがないと,なんだか柳橋は“鼻もちならない”芸なのかな,と思われる方がいるかも知れません。そうでなく,お爺さんが優しく語りかけてくれるような感じが,きっとします。落語を全く知らない友人から“何か聴いてみたいと思うけれど誰がいいか”と訪ねられる時,私は師の『時そば』(この噺で昭和二十四年度 放送芸術祭賞)などを薦めます。入口としては最高だと思います。

Green‐tea Break

この噺は,時代背景は明治でしょうか。細かく往年の市井が描かれており,風俗的な資料価値があると思います。現在では銭湯も少なくなったため,つくりを知らないという方もいらっしゃるかも知れません。だからこそ,こういった噺はいつも私たちと共にいて,好奇心をかき立ててくれる役を果たしてほしいですね。

本編

【Act Ⅰ】
おかみ「ちょいとお前さん,どうするんだい。ちょいと,どうするの」
亭主「なんだい,どうするのって。今,一仕事終えて,昼飯を食べようと帰ってきたばかりじゃねえか。なにをどうする」
おかみ「なにをじゃないよ。二階の居候だよ。いつまで置くんだい,あれ」
亭主「へへっ。どうも,お前ぐらい荒っぽい女はないよ。まあ,どこにも行くところがねえてんでまごまごしているし,あの人のお父つぁんに,おれは昔ずいぶん世話になったこともあるんだ。だから,うちへ置いてあるんだ」
おかみ「お前さんは,恩になったとかなんとか言うが,あたしは,ンなことは知らないやね。第一,あんな不精な人てなありゃしないよ。まだ寝ているんだよ。飯時分になるてえと二階からのっそり降りてきてね,おまんま食べちまえば,すぐにまた二階へ上がって横ンなってるんだもの。いつまでも,あの人を置いておくならあたしゃァ出ていくよ。ぱァッ」
亭主「なんだい,そのぱぁてなあ。どうしてお前はそうガリガリしているんだよ。だから,いいよ,話をするよ。お前がそこでしゃっちょこばっていた日にゃ話もできねえから,おばさんトコへでも行ってこい・・・戸をガタッピシやんない,チキショウめ。はァ,うちのかかあもうるせえがな,若旦那も若旦那で,まだ寝ているようだね。もし,二階の若旦那,まだお休みですか」
若旦那(以下,若)「へへ,もう来る時分だなと思っていた。やってきやがったね。低気圧は徐々としておそいきたるてえやつだ」
亭主「ちょいと,聞こえないんですか,若旦那ーッ!」
若「ほら,調子がまた一本上がったよ。お気の毒だがもう一声願おうか」
亭主「何か言ってるんじゃねえかな,二階で。聞こえませんか,若旦那ァーーッ」
若「花火だね。若旦那ァーーッときやがった。この辺で返事をしてやらないと可哀そうだな。はーーァ」
亭主「何だい,サイレンだね。まだ寝ていらっしゃるんですか」
若「いや,寝ているというわけではないけどもね」
亭主「起きてるんですか」
若「起きてもいないね」
亭主「寝てない,起きてない・・・どっちなんです」
若「枕をかついで,布団の上へ横に立ってる」
亭主「寝てんじゃねえか。ちょいと降りてきませんか」
若「なにか用かい」
亭主「大事な用なんですがねェ」
若「大事な用かい。じゃあ内容証明でももらおうか」
亭主「二階に内容証明出したってしょうがねえ。急ぎの用ですよ」
若「そうかい,そんなら電報打ってくれ」
亭主「冗談言ってちゃいけねえよ。ちょいと降りてらっしゃいよ。お茶が入りましたよ」
若「お茶菓子はなんだい」
亭主「塩せんべいがありますよ」
若「おや,おや,塩せんべいねェ。あんなものァ,うまかないな」
亭主「ぐずぐず言ってますな。どんなお茶菓子がいいんですか」
若「ウイスキーかなんか無いか」
亭主「そんなお茶菓子なんぞありゃあしない。ま,降りてらっしゃい」
若「いま,降りていきますよ。はいはい。ああ,やだやだ,俺がまだ,うちにいた時にゃ,何かとちやほやしていたのに,居候ンなっちまえば,無理に起こしやがる。つくづく人生,居候の悲哀を感じるやつだ」
亭主「何を,降りながらモソモソ言ってるんです。起きてきたんなら顔を洗ったらいいでしょう」
若「洗いますよ・・・ああ,顔を洗うったってそうだ。うちにいた時分にはよかったな。奉公人が,洗面器へぬるま湯を汲んでくれて,顔を洗う時は後ろから袂をもってくれて,石鹸にタオルがあって,ものが行き届いてら。ふん,それに引き換え,今朝は何だい,こりゃ。バケツで顔を洗うのかい。このうちだって洗面器を買やァいいじゃねえか。雑巾を絞っちゃ,これでまた顔を洗うんだ。衛生の何たるやを知らねえんだ。これへ顔を近づけて洗ってりゃ,馬が何か食ってるようじゃねえか」
亭主「何をいつまでバケツに愚痴をこぼしてるんです。さっさとお洗いになったらいいでしょ」
若「あいよ・・・ほら,これでいいかい」
亭主「これでいいかいって,拭かないんですか,顔を」
若「え,へへ。拭きたいんですけどね,手拭いがないんだよ。手すりィ干しといたら,サーッと,風と共に去っていった。それ以来,もう,手拭いを使わないで乾かす。お天気がいいと渇きが早い」
亭主「しょうがないな,どうも。この手拭いでお拭きなさい」
若「いやあ,ありがとう。やはり顔は乾かすより,拭いた方がいい。まあまあ,ちょいと待っておくれ。パンッ,パンッ」
亭主「朝寝坊して拝んでりゃご利益がありましょう。何様を拝んでるン」
若「何様を?バカだね。朝,起きりゃ,今日(こんにち)様へ対してご挨拶をするのは当たり前じゃないか」
亭主「ああ,じゃ,太陽を拝んでらっしゃる」
若「ああ」
亭主「もう西へ回ってますよ」
若「あ。東の方にいなくなっちゃったな。じゃ,お留守見舞い」
亭主「お留守見舞い!まあ,こっちへおいでなさいまし。お茶が入ってますから,お上がんなさい」
若「ありがとう。いやいや,朝,顔を洗った後でお茶てえなあ,大変いいもんでね。うん。この,ゴクン,朝茶はその日の災難をよけるなんてえが,朝起きた時にこの一杯飲むてえやつはうまいもんだ。うん。ゴクン・・・ああ,だけどあんまりいいお茶じゃねえな。どうしたんだい,こりゃ。買ったのかい?もらったんだろう,お弔いのお返しかなんかで。ゴクン。ああ,あんまりうまくねえ茶だな。もう少し葉を余計いれた方がいいよ,お前,ケチだよ。ゴクン。ああ,お湯がぬるいね」
亭主「うるさいね,あなたァ・・・」
若「ごちそうさま。お休みなさい」
亭主「なんだい!・・・お休みなさいてえのはない。まあ,あたくしもね,こんなこと,あなたに言いたくないんだ」
若「あたしも聞きたくないんだ」
亭主「じゃ,話ができない」
若「お休みなさい」
亭主「なんですよ,一々,お休みなさいてえのは。まあ,そこへお座んなさいよ。あたしの口から,なんだかどうもねえ,へへ,まことに言いにくいことで,そらあ,うちのオタフクの悪いことも知ってますがねえ,あァたもうちにいらっしゃるんだから,たまにはオタフクの手伝いでもしてやってくださいな」
若「何だい,そのオタフクってのは」
亭主「何だって・・・うちのオタフク」
若「かみさん,君の?え。あれ,オタフクに見える?オタフクってえのはねえ,ポチャッとした,愛嬌のあるかわいい顔。つまり美人ですね。お前のかみさんなんてェものは,ありゃあ,オタフクじゃない。トラフグに似てんね」
亭主「トラフグ!ひどいことを言いますね」
【Act Ⅱ】
若「まあね,とやこういわれて,お前のうちィあたしもこうやって厄介になってんのも気の毒だから,何とかしましょう。で,自分で身を立てようと思って色々考えてんだ」
亭主「じゃあ,やっぱり,お父つぁんの方へお帰りンなるという」
若「なに,うちへかい。うちへは帰らない」
亭主「どうして」
若「どうしてったって,うちのおやじはねえ,人間が少し変わっているんだ」
亭主「変わっている?なにが」
若「金を貯めるんだよ。それで親父は,あたしが使うとすぐ小言を言やがるン。“なぜ貴様は金を使うんだ”とこう言う。“でも,お父っつぁん,金は使うもんにできているんです”ってえと,“馬鹿野郎,金は儲けて貯めておくもんだ”・・・おい,へへ,金は貯めるもんだてんだからね,困ったもんだね,うーん。ああいう親父とはあたしはもう,絶対付き合わない」
亭主「付き合わない?」
若「ああ,もう勘当しちまう」
亭主「おや,驚いたね。ものが逆になってきましたね。では,お宅へお帰りにならない」
若「うん。それで,自分で身を立てようには,人間頭を使わなくちゃいけないよ。頭を使うったって,安い酢ダコじゃないから頭だけ使ったってしょうがない。とにかく,あたしが発明をしたものがある。これで世界の特許をとるだけで,まあ,何千億円という金が入るだろ」
亭主「あなた少し大丈夫ですか。お熱があるんじゃないですか」
若「そう驚いちゃいけないよ。そのくらいの金はわっと,文句なしに入る」
亭主「何を考えたン。え。どんなことを考えたんです」
若「どんなことったって,うっかり話をしてお前がこれを洩らすようなこと・・・」
亭主「そんなことはありませんやね。だから,こんなことだくらいでようがすから,話をしてくださいな」
若「じゃあね,お前だけには内々(ないない)で話をするが・・・秘密だよ」
亭主「うん」
若「しゃべっちゃいけない」
亭主「大丈夫ですよ」
若「・・・すずめ」
亭主「え?」
若「雀」
亭主「スズメ?スズメって,あの,飛んでいる雀」
若「ああ,あれをね,手捕まえにする」
亭主「ンな,そんなこと,何もあなた小さな声で」
若「いや,うかつにしゃべって,いつ雀が立ち聞きしないとも限らない」
亭主「雀が立ち聞きをするてのはないやね。だって,手で捕まえるたって,飛んでいるでしょう」
若「飛んでいるんだよ。それを無造作に手で捕まえるなんてえところは,実に愉快だろ」
亭主「愉快かなんか知らないけども,あんなものはあなた,一羽いくらに売れる」
若「それはお前,頭が古いね。一羽いくらに売れるもんじゃあない。これがね,何千億羽ともなればいい」
亭主「あなたは,みんな億がつくんだね。そんなに捕れるんですか」
若「捕れるんだよ」
亭主「じゃ,機械かなんかで」
若「ンなことはしない。いま言う通り,手捕まえ,うん。ミリンの中にな,お米を一月ばかり浸けるんですよ」
亭主「ふんふん」
若「で,すっかりミリンがしみるでしょ。そのお米を庭にスーッと撒く。と,方々から雀が飛んでくる。チュチュチュチュチュチュ,てなこと言って。人間が聞きゃ,ただチューチュー言ってるんだが,雀だって色々,話をしてらァな。“ご覧なさい,あそこにお米があるよ。どうだい,みんなであれをひとつ,いただこうじゃねえか”てんで降りてきて,チュッチュクチュッチュクいいながら,この米を食ってみると,ミリンの中へ浸けてあったから甘いでしょ。口当たりがいい。“こら,うまいね。どうも乙な米だよ”ってんで食ってる内に,雀が酔っ払う」
亭主「雀が酔っ払う?」
若「酔っ払うね。アルコールが入ってる。雀がいい心持ちンならァな。“チューチュイー,チューゥ。ああ,いい心持ちだ。こらどうも,近年まれなるいい心持ちになってきやがった。さあ,矢でもパチンコでも持ってこい”」
亭主「なんです,そりゃ」
若「人間なら,矢でも鉄砲でも持ってきやがれってなことになるんだが,雀だから“矢でもパチンコでも持ってこい,チキショウ。ああ,いい心持ちだねえ。何だか,俺はどうも眠くなってきちゃったよ。どっかでゆっくり寝てえじゃねえか”なんてんで相談をしているところを,落花生の皮ごとね,スッと撒いてやる。“おう,ご覧よ。乙な枕が出てきた。真ん中が凹んでて良(い)いよ。どうだい,これでひと寝入りしようじゃねえか”てんで,雀がグッスリ寝込んだところを,手捕まえにする」
亭主「おそれいりましたね。あなたは中々いい頭だ。けどね,まあ,あきらめた方がようがすよ」
若「ダメ?捕れない?」
亭主「捕れないたって,そんなもの,捕れるわけがないじゃないですか」
若「じゃ,これがいけなければ,もう一つ」
亭主「まだあんの」
若「まだある。今度も世界の特許を取るだけの・・・」
亭主「また始まったね。何です」
若「今度はね,人間が生涯,腹の減らないという発明。こりゃあ大変なもんだよ,お前」
亭主「腹が減らないったって,食わなきゃ死んじまう」
若「だから,それだ。食わなければ死ぬというところを何にも食わず,健全に生きていることができるとなると,こりゃ大変な革命だね」
亭主「へえ。薬かなんか飲むんですか」
若「そりゃ,まあ薬は飲む。高いもんじゃない。炭酸て薬を知ってるか」
亭主「炭酸?炭酸てえと,あの,煮物やなんかに使います?」
若「そうそう。あれをね,適量に飲む。で,その後へ飯を充分に食べて,それから,下剤があるでしょう。下し薬。あれを一服飲む」
亭主「うん。で,どうする」
若「これで人間,生涯,腹が減らない。その原理はね,炭酸ソーダという薬は,沸騰料がある。乗っかってる食べ物を上へ持ち上げようとする。ところが,上へ乗ってるやつは下し薬。下剤だから下へ押すという力がある。下では上へ持ち上げる。上では降ろそうとする。真ん中で平均の力を保つ。生涯,腹が減らない」
【Act Ⅲ】
亭主「あきれかえったね,あなた。子供みたいなことばかり考えてんだな。ねェ若旦那,あなたもいつまでウチの二階でごろごろしててもしようがないでしょう。どうです,ひとつ奉公でもしてみようなんてえ心持ちになりませんか。まじめにおなりンなったことがわかりゃァ,ご勘当も解かれるッてえやつだ」
若「ああ,奉公かい。いいねェ奉公,安心してご飯が食べられるから」
亭主「なんだい,いやなことを言うねェ。じゃ,なんだかウチで飯を食べさせないようですね」
若「いや,そんなことはないさ。食べさしてはいるよ,死なないまじないに」
亭主「なんです,その死なないまじないてえなあ」
若「お前はなんにも知らないんだよ,仕事に早く出ちまうから。あたしの起きンのァどうしても遅いんだよ,ね?いざご飯てえ段になるとね,おかみさんがお給仕に出るんだ。そのお給仕だがね,お鉢の蓋をぱッと取ると,濡れたしゃもじで飯の上をぺたぺたぺたぺたッとたたくね。たたき飯の,延し飯だ。たいらになったところを上っ側すッとそぐんだよ。茶碗を持ってってきゅうッとこかあ。見たところはいっぱいあるようだよ。中の方はがらんどうですよ。これすなわち,宇都宮は釣り天井メシ」
亭主「そんな飯がありますか」
若「これへ,お茶をかけると墜落メシだ。お茶漬けさくさくてのァあるけど,お茶漬けサァでお終(しま)い。二杯目に出すと“若旦那,お茶ですか,ご飯ですか”と言われる。ご飯を願いますッてえと,これも前と同(おンな)じ,お茶漬けサァ。三杯目にはもっとすごい。“ああら若旦那,お茶ですかお湯ゥですか黒文字(楊枝)ですか”というぐあいだ。飯てえことが一言もない。しようがないから裏の常磐津の師匠のところへ行って,ご飯貰って食うんだ」
亭主「困んねェ,あなたそんなことをしちゃァ。うちで飯を食わせないなんてことォ言って・・・」
若「いや,お前の顔をつぶすようなことァしませんよ。師匠が洗濯をしてたからその後ろへ行って,げえッ,げえッ,てたんだ。“あら,どうしたの伊之(いの)さん”てえから“実は魚の小骨が咽喉(のど)へ引ッかかりまして”・・・断わっておくよ,お前のかみさんは,魚なんぞ食わしたことないよ。ああ一度あったかなァ,それも秋刀魚(さんま)だ。時期のはずれた時分だから油ッ気のない,ばさばさンなったやつ。これもおかしいねェ,秋刀魚ってのは二ッつに切るもんなのに,あのかみさんは三つに切るね。それも頭ンとこを出すんだ。ひとをドラ猫と間違えてやがんの。そんなことが一遍あったッきりだ。でも“魚の小骨が咽喉へ引ッかかって困ってます。象牙(ぞうげ)の撥(ばち)でなぜるとすぐに取れるなんてえことを聞いてますが,すみません,象牙の撥を貸してください”と,こう言ったんだ。ヘへッ,あそこのうちに象牙の撥がない。これはちゃんと知ってるんだよ。だから,師匠が少し赤い顔をしてね,“あら,そうですか。でもそんなことをしなくッたって,ご飯のかたまりをグッとお飲みンなれば,すぐ取れますよ”ってえから,“じゃァすみません,ご飯のかたまりを戴きたい”“お勝手(台所)にあるからおあがんなさい”てえから,ありがてえ,計略図にあたったなと思ってね,勝手へ飛びこんだんだよ。大きなお鉢に,蓋をぱッと取ってみると飯が八分目,白くぴかぴかッと光ったね。思わず感激にむせんだ」
亭主「そんなとこでむせんじゃ,しようがねえなァ」
若「それから大きな茶碗へ,てんこ盛りによそって水をかけといて,夢中で三杯ばかりかッこんだ。そこィ師匠が入ってきて“あらいやですよゥ,お茶漬けじゃァないのよゥ,かたまりよゥ”てえから,“ああそうですか”てんで,赤ん坊の頭くらいなカタマリを二つこしらえた」
亭主「大きいね」
若「大きいったって,こいつをこう袂へ入れて持って帰ってきたが,どこで食ったと思う」
亭主「二階でしょう」
若「いやあ,二階でこんな物を食べているところへ,お前のかみさんが上がってきて,うちの飯でも盗んだなと思われんのは嫌だからね,これを持ってはばかりへ入った。エヘッ,あすこはあんまりうまくないトコだね」
亭主「当たり前ですよ・・・そうですか,ちっとも知りませんでした。ようがす,あっしゃァね,お宅じゃァずいぶんお世話ンなってんですから,うちのかかァをたたき出してもあなたのお世話をしますから,どうぞそのおつもりで」
若「おい待ちなよ。おだやかじゃァないよ,たたき出すなんてえのァ。まァ,あたしが奉公にさえいけば丸くおさまるから,うん,その奉公ッての行こうか。どこだい」
亭主「おいでンなりますか。日本橋の槇町ですがね。あたしの友達でね,奴(やっこ)湯って銭湯をやッてまして,奉公人が一と人ほしいッてましたがね」
若「ほゥお,銭湯?湯ゥ屋だな・・・それ,女湯もあるかい?」
亭主「そりゃ女湯もありますよ」
若「へへへへ,行こう〜。行くよ!」
亭主「気味が悪いなァ,この人は。手紙が書いてあるから,持ってらっしゃい。この間,主人(あるじ)に会ったから話をしときました。手紙を持ってきゃァすぐわかるようンなってますから。主人は鉄五郎ッてえますから」
若「ああ,そうかい,この手紙持ってきゃァいいんだ。鉄五郎さんねェ,奴湯かい,じゃァ行ってみよう。お前にもずいぶん世話ンなったねェ」
亭主「いえ,まァお世話てえほどのことァできませんでした」
若「そりゃァまァそうだが」
亭主「なんだい,請け合っちゃァ困るねェ。つらいでしょうがひとつご辛抱なすって,またお店のほうはあたしが行きまして,大旦那に会ってよく話をしておきますから」
若「ああわかったよ・・・かみさんが居ないようだな,ひとつよろしく言っといてもらおうかなァ。そうそう,お前ンとこへ,なんか礼をしたいなァ」
亭主「まァよござんすよ,べつに」
若「いや,なんか礼をしようよ。どうだろうな,十円札の一枚もやろうか」
亭主「そんな金持ってますか」
若「いや,いまァ持ってないよ。気分だけ受け取ってもらおうじゃねえか。そのうち五円をあたしに貸しておくれ」
亭主「ばかなことを言っちゃァいけませんよ」
【Act Ⅳ】
若「はッはッは,じゃァま,行ってくるよ・・・・・・あァ,嫌だ嫌だ。あの親方ァひとがいいんだが,どうもあのかみさんがうるせえなァ。『メンドリすすめてオンドリ時をつくる』てなァあれだなァ。ああ,かみさんが何か言ったに違えねえや。二た言めには“あなたのためだ,あなたのためだ”ッて,『おためごかしの言い手はあれど,まこと実意の人は無え』ッてえが全くだい。“若旦那,あなたぐらい不精な人はありませんよ。ものを縦にも横にもしようとしないんですね”・・・そいから,こないだ言ってやったんだ。“じゃ,おかみさん,そこにある長火鉢をおッ立てようか”ッたら怒りゃがったなァ・・・あァここだここだ,ガラガラガラガラ・・・こんちわァ」
湯屋の主・鉄五郎(以下,鉄)「いらッしゃい。あァた,そっちは女湯ですよ」
若「え?」
鉄「女湯です」
若「ェェ・・・えへ,あたし女湯・・・好きです」
鉄「好きだっていけねえや」
若「奴湯てえのは・・・」
鉄「あ,奴湯はここだ」
若「鉄五郎さんは・・・」
鉄「あ,鉄五郎はあたしだよ」
若「ああそうですか,あァたですか。なるほど鉄五郎だけあって黒い顔をしてらァ」
鉄「変なことを言っちゃいけない」
若「手紙を持って来たんでねェ,ちょいと読んでもらいたいんで」
鉄「ああ手紙を?どれどれ,うん,大熊(だいくま)のところから・・・そこじゃァいけねえや,男湯の方に回ってもらおう・・・ああ,そこから,そこから。そこで待っててくれ。返事を出すもんならいま出すからね・・・ああ,そうか,いやこの間ちょいと話をしたんだ。奉公人があったら世話ァしてもらいたい・・・ああお前さんか,道楽が過ぎて勘当されて大熊のうちの二階に居るてェなあ。まァいいや,若えうちはそれくれえの元気があったほうがなァ。道楽の一つもしてなくちゃァ,奉公人(ひと)を使っても思いやりがなくていけねえ。うゥん,そうか。大丈夫かい?名代の道楽者だってえが」
若「名代なんてことァないんですよ。ただあたしゃァ,女の子に取り巻かれて一杯やりながら,“あァらお兄さん,いやァよゥ”なんつッて,膝をきゅッとつねられるのが好き」
鉄「なんだい?たいへんな人が来たなァ。さァ,辛抱できるかなァ」
若「まァ辛抱するつもりで来たんですから,なんかひとつやらせてもらいましょう」
鉄「そうだなァ,はじめのうちは外回りでもやってもらおうか」
若「ようッ結構。外回りてえのは,札束ァ懐に全国の温泉を回ってラジウムを発見してくる」
鉄「ばかなことを言っちゃァいけない。そんな外回りはないよ。荷車ァ引ッぱってって普請場(ふしんば)へ行ってね,木屑や鉋ッ屑を貰ってくるんだ」
若「ああ,あれですか,外回りてえなあ。ありゃいけねえやどうも。あの汚な車をひいて,汚な半纏(はんてん)に汚な股引(ももシキ)でしょう。汚な帽子をかぶりの汚な手拭いで頬被(ほッかぶ)りをして,汚な草履(ぞうり)をつッかけの・・・」
鉄「なんだ,いやに汚ねえのが並んだなァ」
若「あァ,どうもねェ,あんまり音羽屋のやらねえ役だからなァ」
鉄「なんだ,色ッぽいことを言ってんなあ。誰かがやらなきゃァ,しょうがないんだよ。それがいけなきゃァ,さて・・・その次は煙突掃除かなァ」
若「おォやおや,だんだん役まわりァ悪くなってくらァ。煙突掃除ねェ。さてその次は,と,くりゃァ江の島の,といかなくちゃいけないもんねェ。『(台詞口調)岩本院の稚児(ちご)あがり,ふだん着なれし振り袖から・・・髷(まげ)も島田に由比ヶ浜(ゆいがはま)・・・島に育ってその名せえ,弁天小僧菊之助ェ』なんて見得ェ切るから,大向うから声がかかるんですがねェ,幕があいて煙突掃除なんてのァあんまりねえからなァ。『(台詞口調)さてその次はお湯ー屋の,煙突掃除に住み込んで,ふだん着慣れしメリヤスの,シャツモモシキも穴だらけ,黒く染まってその名せえ,煙突小僧の煤之助ェ』てんじゃはばがきかない」
鉄「なんだなァ,そんなことを言ったらあとはやることはないよ。ええ?」
若「そうですか。じゃその番台どうです,番台。見えるでしょ?そこで」
鉄「なに?」
若「見えましょ?」
鉄「なにが」
若「なァにがなんてしらばッくれて,一と人で見ようと思って。ずるいぞォ!」
鉄「なんだよ,しょうがねえなァ,この人は。あ,じゃァこうしましょう。いま,あたしが昼飯を食べてくるからねェ,その間,代りにここィ座ってておくれ」
若「あ,そうですか,すみま・・・」
鉄「待ちねえ待ちねえ,いきなり上がっちゃァだめだ。あたしが降りなきゃァ」
若「ああ,そうですか,助手台はありませんか」
鉄「番台の助手台なんてのァない。さ,代わって上がっておくれ」
若「へ,どうもすみません。よいしょッ。へへへ,じゃ,まァゆっくり召しあがって・・・あ,それからちょいとうかがっておきてえんですがねェ,お昼のおかずはなんですか」
鉄「そんなことを聞かねえでも」
若「いいえ,そうでない。あとでごちそうになるかと思うと楽しみですから」
鉄「お前さんはお惣菜ものは間にあわないよ。ありあわせのもので我慢してもらおう」
若「そうですか。いえ,もう何でも結構です。あ,じゃ面倒ですからねえ,天丼を一つ,そう言ってもらいましょうか」
鉄「冗談じゃないよ,奉公人にいちいちそんなものを食わしていられるかい。ま,なんだよ,間違いのないようにしっかり頼むよ」
【Act Ⅴ】
若「へえへ,じゃ,まァごゆっくり・・・ふッ,ありがてえありがてえ。ここへ上がってしみじみ見てえと思ってたんだ。さて女湯はいかがなるや・・・なんだ,一と人も入(へえ)ってねえ。驚いたねェ,板の間ァからッぱしゃぎになってやン・・・男湯のほうは入ってるねェ,こら。一ォ人,二ァ人,三人,四人,五人六人七人,八人,あ,そうでねえ,あの野郎湯ン中にもぐってやがら。はッは,潜航艇みてえだ・・・男なんざァ昼間ッから湯ィ入ってみがいたってしょうがねえだろうになァ・・・おゥ,やせた人が入ってんなァ。『男は裸百貫の』てえが九貫三百ぐれえしかねえなァ。骨ばかりだなァ。軍鶏(シャモ)のガラだねまるで・・・こっちの人ァ太ってんなァ,ありゃ脂肪ぶとりだなァ。火葬場へ行ってよく焼けるだけの話だなァ。もし,一と人あたま脂肪何グラム有するものは速やかに届け出ずべし,なんてことになりゃァ,みんな届けに行くだろうなァ,区役所へ持ってって脂肪届なんつッてな・・・おやおやなんだいあの人は?刺青(ほりもの)もいいけども,筋彫(すじぼり,刺青の下書き)でやめちゃったッてやつだなァ。なんだろうあの絵は?唐獅子(からじし)に牡丹か,どう贔屓(ひいき)目に見てもブルドックがキャベツねらってるようだなァ・・・おや,こっちの人ァなんだよ,なんか洗ってるじゃァねえか。フンドシを洗ってるな。衛生によくねえぜ,あんなものを持ちこまれちゃァ・・・ああいうのァずゥずしいから,いまに布団かなんか持ってきて洗うだろうなァ,おゥおゥそこらへ落ちてるシャボンを拾い集めて洗ってらァ,あれが本当の節倹家(セッケンカ)てえのかな・・・こっちの人ァ汚ねえお尻(ケツ)をしてるじゃァねえか。ありゃァ,自分の毛かい?植えたんじゃァねえだろうなァ,ずいぶん汚ねえおけつだ。あれが本当の不潔てんだろう。だけど考えてみりゃァ,安いもんだなァ,こみにして湯がいちゃってるようなもんだからなァ。みんな湯船へ放り込んで,蓋ァしてゆでたらどんなもんだろうなァ。炭酸を入れたら柔かくなってふくらむだろうなァ。おもしれえなァこりゃァ・・・(思わず大声で)炭酸入れてゆでよう!」
○「なんだ?おかしなやつが番台に上がったぜ・・・冗談いうねえ,お多福豆じゃァねえや,そんなことをされてたまるかい。まぬけめ!」
若「・・・だめだ,男は洒落が通じねえや。男がみんな出ちゃったら,ここンとこォ釘付けにして男を入れんのよそう。女湯のほうがいいや。夕方になると女湯もこんでくるなァ。そのなかで,いまにあたしを見初める女が出てくるよ。どんなのがいいかな。娘はいけないねェ,別れるときに生きるの死ぬのなんてえと,事が面倒になるからなァ。といってお乳母(んば)さんみたいなのはごめんこうむりたいし,主(ぬし)のある女は罪になっていけないし・・・さァ,そうなるてえとないねェ。芸者衆なんぞも悪くねえけどもなァ,一流の姐(ねえ)さんになるてえと湯ィ来るんだって一と人じゃァ来ないだろうからなァ。東(あずま)下駄の甲の薄いのかなんかはいてねェ,女中の一と人も連れて,カラコンカラコンカラコン,ガラガラガラガラ・・・。“へいッいらッしゃいまし。毎度ありがとうございます。新参の番頭で,どうぞよろしく”なんてえと,番台をちらッと横目で見て,なんにも言わないで隅ィ行っちまうねェ。“清,ごらん,今度きた番頭さんだよ。ちょいと乙な番頭さんだねェ”なんて噂話をするね。“だけどあの人もなんか険相(ケン)があっていやだわよ”なんて言われるといけないから,たまにゃァお世辞に糠袋の一つでも出して“どうぞお使いを”なんて,渡してみようかな。“まァ,ありがとう。ぜひ私の所へお遊びに”とくりゃァ,しめちまうなァ。遊びに行くにしても,なんかいいきっかけがあればなァ。そうだ,女の家の前を通ろう。女中さんが格子かなんか拭いてるとこだよ。“あら,お湯屋(ぶゥや)の兄さんじゃありませんか”“おゥ,お宅はこちらでしたか”“お姐(ねえ)さん,お湯屋の兄さんが・・・”奥ィ声をかけるてえと,ふだんから恋焦がれてる男だからものすごいね。奥のほうから泳ぐようにして出てくるねェ。“まァ,よく来てくださいました。さァどうぞお上がりあそばして”“わざわざ来たわけじゃァございません。今ちょうどおかどを通りましたんで,お寄りをしてみまして”“まァいいじゃァありませんの,今日はお休みなんでしょ”“あァ今日は釜が損じまして早じまい”・・・いい台詞じゃァねえなァ,釜が損じて早じまいなんてのァ。ないかねェなんか・・・そうそう墓参りなぞいいなァ。“まァお若いのに感心なこと。いいじゃありませんの,さァお上がりあそばせ”“いえ,又として”“いいじゃありませんの”・・・女は行かれちゃァ困ると思うから,あたしの手をつかむと放さないね。“まあお上がり遊ばせ”“いえそのうちに”“まあお上がり”“いえまた今度”“まあお上がり〜ィ!”」
○「ェえ?いえ,あの番台の野郎だよ。“お上がりお上がり”ッてやんのよ。こっちだと思ったら,そうじゃァねえぜ。手前ェで手前ェの手を引っ張ってやがン。おもしれえから見てようじゃねえか」
若「無理に上げられると酒と肴(さかな)が出てくるねェ。やったり取ったりしているうちに,顔を桜色にしながら俺のことを睨むよ。その目の艶(いろ)っぽいこと。あはははァ弱ったなァ」
○「おい,あの野郎,弱ったッて,おでこたたいてるぜ。ほら,みんなこっちィきて見てやれッてのに」
若「あんまり長居もいけないねェ。“この人もいいけどお尻が重いよゥ”なんてなァ,困るからね。ほどのいいところでおいとましよう。“たいへんご馳走になりました。ではあたくしこれでおいとまさせていただきます”・・・ここで帰っちゃっちゃァまずいねェ。“いいじゃァありませんか”と留めてくれりゃァいいけどもねェ。帰れなくなるてなァないかなァ・・・そうだ,雨がいいね。やらずの雨にでも降ってもらおう,ザーーッと!」
○「なんだい,今度ァ雨を降らせてやがら・・・お!?どうしたんだお前ェ,血だらけじゃねえか」
△「チキショウめ,あの野郎が妙なまねしてやがッから,見とれて軽石で顔ォこすっちゃった」
○「ばかなことをするない」
若「雷さまにもお出ましを願いましょう。ガラガラガラガラガラ,ピシーィ・・・女ァ目ェ回す。しょうがないから水を含んで口移しだ。気がついた女が喜ぶねェ。“雷さまは怖けれど,あたしがためには結ぶの神・・・うれしゅうござんす番頭さん”」
□「馬鹿ッ」
若「あいたッ。痛いよあァた,頭をぶって」
□「何が“うれしゅうござんす”だ。俺ァ帰(けえ)るんだ,帰るんだ」
若「どうぞご遠慮なく」
□「この野郎,おちついてやがら。みろ本当に,え?俺の下駄がねえじゃねえか!?」
若「あァた,下駄をはいてきたんですか」
□「はいてきたじゃァねえかよ。てめえがそこで変なまねェしてッからみろい,格子があいて犬でもくわえ出したんじゃねえか」
若「え,犬が?いえ,そんなことァありませんよ。この近所の犬ァみんなきれえ好きですから,そんな汚ねえ下駄ァ・・・・・・」
□「な,なんだい,汚ねえたあ!なんのために手前ェそこへすわってるんだい,番台だろう」
若「そうですなァ,番台ですなァ,昼間ッからすわっても番台とはこれいかに」
□「こん畜生,だれが問答やれッてったんだい。どうするんだい俺の下駄ァ!」
若「なんですよゥあァた,みっともない,下駄しきのことで大の男があわてふためいて。人間あきらめが肝心です。おあきらめなさい」
□「な,なんだい?なに言ってやがるこん畜生,俺の!」
若「わかりましたわかりました。そこにある下駄をおはきなさい。本柾(ほんまさ)だァ。鼻緒だって本天(本ビロード)で,安くありませんよ,そいだけの下駄ァ」
□「うん?こりゃなにか,お前ェの下駄か」
若「とんでもない。なかに入ってるお客さんのです」
□「出てきて文句いうだろう」
若「いいですよォ。順に順にはかせていちばんお終(しま)いは裸足で帰します」

プロローグ

大きな商家に生まれたものの,道楽が過ぎて勘当になった若旦那が,出入りの職人の家に居候しますが,やがてその家も追われるようにして湯屋へ奉公に出ます。「働くとはどういうことか」というほどの堅苦しいテーマではありませんが,若者の社会進出をどこか応援しているようにもみえます。

銭湯(昭和時代)

Green‐tea Break

たぬきシリーズには,他にもいくつか物語があります。
真打ちの噺である『狸賽(たぬさい)』。それから「納所(ナッショ)!熱い!熱いぞ住持!」の『狸の釜』は,別の機会に書かせていただきたいと思います。

本編

【Act Ⅰ】
八五郎(以下,八)「おい,おい,そりゃいけねえな。子どもってのは動物と仲良くするもんだよ。犬をいじめんじゃねえ。ホラ,ホラ,石なんかほうるんじゃねえよ」
子供「おじさん,これ犬じゃねえんだョ。狸だよ」
八「狸だ?そうか,犬にしちゃあナ,口がとんがらがって。子狸のようだナ」
子供「そうなんだョ,罠かけてね,親狸はかからないで子狸がかかっちゃったんだ。今,みんなでとっつかまえてふン縛ったんだけれども,狸汁にして食っちまうんだ」
八「おい,おい,かわいそうなことをするねえ。この狸も,お前たちと同じように子どもじゃねえか。なあ。じゃ,狸をこっちへよこせ。おじさんが狸を買ってやるから,こっちへよこしなョ」
子供「おじさん,狸買ってどうするんだ」
八「どうするんだって,逃がしてやるのよ」
子供「逃がしてやる・・・やァ,仲間だな。狸親父」
八「変なこと言うな,こン畜生。さァさ,こっちィ貸せ,こっち貸せ。さァいくらもねえけどもナ,お前たちにこれをやるから,これでみんなで飴でも買やァいい。おい,こっちへよこしなよ,狸を・・・さァさ,ほどいてやるから。お前餌なんかに気をとられるからこういうことになるんだィ。さァ,逃げろ,逃げろ。ハハハ,どうだィ,丸くなってとんでいっちまィやがる。あー,でも,いいことをしたョ。墓参りの帰りだしなァ,生き物の生命(いのち)を助けていい後生だ。だけど,なけなしの銭,子どもにみんなくれちゃったもンなァ。文無しになっちゃったな。まァいいか,なんとかなるだろう」
○「(トン,トン,トン,トン)コンバァー(トン,トン,トン,トン)コンバァー」
八「フワーア・・・誰でィ,夜中に。そう戸をたたくなよ。寝ちゃったんだョ,もう。明日にしてくんないかな。誰なんだ」
○「タヌー」
八「えッ,なに」
○「タヌース」
八「民公か」
○「いやタヌース」
八「うーん?なんだ,起き抜けだから,よく聞こえねえや。狸がモソモソ言ってるようだな」
○「その狸です」
八「その狸だって言いやがる。狸につき合いなんぞねえや。またなんだろ,夜遊びしちゃァ閉め出しくって俺ン家(ち)来て泊めてくれってんだろ。俺が独り者だからって,家を宿屋かなんかと心得ていやがるんだものなァ。待ちな,待ちな,今あけてやるから。冗談じゃねえぜ,よる夜中人ン家の戸をたたいてあけさせて,本当に。さァさ,お入りョ。おう,なんだ,誰もいねえじゃねえか」
○「へへへ,こっち入っております」
八「なんだ,なんだィ。やに真黒いものが。なんだ」
○「へへ,狸でございます」
八「狸だ?この野郎,どこから入ったんだ」
狸「今,親方がおあけになったとたんに,股ぐらスーッと通って入りました。ちょいと見たら,随分フンドシが汚れてた」
八「大きなお世話だい。なんだってこんなとこ飛びこんできやがったんだい」
狸「昼間,あのやぶのところで子どもにつかまりまして危ないところ,親方がとび出して買い取って逃がしてくださいました。あの時の子狸でございます」
八「あーァ,そうか,あん時の狸か。狸だとかどじょうなんてェのはみんな同しような面(つら)してやがるからなァ。そうかい,あれからどうしたい」
狸「穴に帰りましてそのことを両親に申しました」
八「なんだい,その両親てェのは。えッ,ああ,親狸か。話をしたのかい」
狸「大変もう親父は喜んでおりまして,実に立派なかただなんてんで,腹をたたいて感心してました」
八「ウフッ,膝をたたいて感心するてェのはあるがなァ,狸のはやっぱり腹をたたくのかなァ。そんなに感心してたか」
狸「いやァ,実に立派なかただっていうんで,そういうかたは人間にしておくのは惜しいと言ってました」
八「なんでィ,人間にしておくのが惜しいってェのは」
狸「狸の仲間に入れてあげても恥ずかしくない人だ」
八「よせ,馬鹿なこと言うねえ。そうかい,そんなこと言って親父がほめてたかい」
狸「ご恩人だから,早速お前が行ってご恩返しをしてこなくちゃいけないとこう言われまして,今晩お礼かたがた恩返しにあがったようなわけでございます。どうぞひとつよろしく」
八「おお,そうかい。義理がてェこと言ってやがんなァ。恩返しってなにをやるつもりだ」
狸「べつにこれってできることもございませんから,親方がお仕事からお帰りになりましたら,おみ足でもさすりましたり,肩でもたたきまして,あなたのおかみさん代わりになって」
八「おお,断わろうじゃあねえか。狸のおかみさんがありゃァ困らあな。まァいいや,そのお心持ちだけで充分だ。いいから穴へ帰ンなよ」
狸「いやァ,このまま穴に帰れませんので。なにしろうちの親父は昔気質(かたぎ)でございますから“恩返しをしてきたか”“してまいりません”なんつった日には,とんだことになりますから。“なんだこの馬鹿野郎,恩を受けて返さない奴があるか。そいじゃまるで人間も同様じゃねえか”」
八「おい,おい,よせョ。馬鹿なことを言うなョ。いいからお帰りよ」
狸「置いてくださいョ。このまま帰るってェと,勘当になっちゃいますから」
八「勘当されちゃァかわいそうだな。じゃァ,まァ,いてみろィ。いるのはいいけどな,俺のとこは食い物なんぞなんにもねえぞ」
狸「そんなものは自分でどうにかしますから」
八「そうか。着て寝るものもねえぜ。俺は,お柏になって寝て・・・お柏なんても知るめいがナ,一枚のせんべい布団にクルクルってくるまって寝てるんだ。お前の着て寝る布団がねえや」
狸「そんなものはいりません。自分のをひろげて寝ますから」
八「ああそうか,よく聞くなァ,狸の金は八畳敷きだなんてェのは。そんなにひろがるのか。ちょいとここでひろげて見せねえか」
狸「八畳は親狸でして,私はまだ子狸ですから,ホンの四畳半ぐらいで」
八「四畳半?粋なもんじゃねえか。暖けえのか」
狸「暖かいものです。なんなら半分かけましょうか」
八「おお,いいや。じゃァ,それにお前くるまろうが,勝手にして寝ろィ。じゃァまァナ,今晩は遅いから寝ることにして,万事明日のことだ。それから,なんだぜ,俺ンとこに友達が大勢来るがなァ,お前がウロウロしてるてェとまずいぜ。八公ンとこ行くと,しょっちゅう狸がふくれてるなんてんでな,口が悪いから狸の八五郎だなんて仇名をつけられちまうからな。目立たねえように」
狸「ああ,そりゃァちゃんと心得てますから」
八「そうかい,そいじゃ今晩遅いから寝ようじゃねえか」
狸「では」
八「おい,おい,いいんだよ。上へあがって寝ろよ。えッ,畳があります?いんだ,それが畳たって,ボロボロなんだ。えッ,畳は冷えていけねえ?言うこと変わってやがんなァ。そうか,お前の好きにしろ。土間の方がいいか。炭俵かなんか敷いてやろうかな。いらねえか,うん,じゃ休みねえ」
狸「へェ,休ましていただきます。お休みなさいまし。グー,グー」
八「なんだ,随分寝つきのいい狸だなァ。もうイビキをかいてやがらァ。オイ,お前目ェあいてんな」
狸「へェ,狸寝入りです」
八「ああ,狸寝入りか」
【Act Ⅱ】
狸「親方,もし,しょうがねえな。人間なんざ寝ちゃうと死んだんだかなんだかわからねえな。親方,お起きなさいまし。モシ,親方」
八「お,お,へぇ,どうもすいません。えーどうもありがと。いやね,夕べね,変なのと会ったもんだからネ,すっかり寝そびれちゃってね。おい,おい,なんだ,俺はお向こうのおかみさんだと思って話をしてたらそうじゃァねえな。見慣れねえ小僧じゃねえか。どこの小僧だい。おいおい笑ってちゃいけねえ。どこの小僧だョ」
狸「狸です」
八「なに」
狸「夕べの狸です」
八「あッ,ン畜生,化けやがった」
狸「大きな声をしちゃいけません。狸のまんまじゃいられませんからね,目立たないよう化けてみたンすョ」
八「そうかい,うまく化けるもんだなァ。回ってみろ,回ってみろ。しっぽなんか出てねえな。うめえもんだな」
狸「ええ,仲間じゃなかなかたちがいいってほめられてますから。はじめあなたのおかみさんになったんですがね,どうも急に女房ができちゃうのは変なもんだと思い,それにまた女てェのは目につきやすいですからネ。それでおかみさんやめまして,きれいな小僧に化けたんですがネ,家(うち)ィ見ると随分汚ない家ですから,遠慮しまして,汚ない方に化け直りました」
八「なんでィ,変なとこに遠慮するなョ。おい,家が汚ねえどころじゃねえ,見違えるほど小ざっぱりしてきれいになっちゃったネ」
狸「ええ,掃除をしましてネ。あなたは不精ですね。ゴミだらけ。はき出すったって,ほうきはなし,はたきはなし,仕方がないからしっぽではたきましたョ。随分しっぽの毛が抜けちゃった」
八「あんまり無理をすんなョ。そうかい,とにかくまめでいいナ」
狸「それから,もう,ご飯の仕度ができてますからどうぞ。顔を洗ってご飯を召しあがるように」
八「えッ,そんなことしたのか。だっていけねえぜ。ご飯の仕度って,いやだよ,変なものを食わしたんじゃァ」
狸「いや,ご恩人ですから,そんな馬鹿な真似はいたしませんから」
八「だって,ご飯の仕度たって,米っ粒一つねえぜ」
狸「そらもうちゃんと買ってきました」
八「買ってきましたって,銭がねえ」
狸「そらァもう大丈夫。火鉢の引出しをあけましたら,古い葉書が何枚かありました。私が葉書をニ,三回もスーッとなでますてェと,そいつが立派な札になっちゃうんで。そいつで化かして買ってきたから大丈夫です」
八「へェー,お前がなにかい,葉書をなでると札になるのかい。そいつはありがてえ。お前に当分いてもらおう。義理の悪いとこは狸で用が足りるぜ。そうかい。いや,いや,どうもありがてえな。飯はご馳走になるが,その前にちょいとお前に頼みがあるんだがな。俺はこう見ての通り,独り者で怠け者でな。なにしろ方々義理の悪い借金があってナ,今が今,一軒取りにくる奴があるんだよ。これは地方から来てな,呉服屋だい。どうもね,親方のとこの勘定をもらわねえと国へ帰れねえ,宿屋でムダ飯ばかり食ってなくちゃなりませんて,毎日のように催促に来てうるさくてしょうがねえ。これがな,五円ありゃァ釣銭(つり)がくるんだがな。おい,そこに葉書はいくらかたきつけに取ってあるんだからよ,札をひとつこしらえといてくれねえか」
狸「それはだめです。いつまでもお札になってないんですから。向こうの手に渡ってしばらくすると元の葉書になっちまいますからネ。ですから,私が魚屋に行く時は,おじいさんになったり,米屋に行く時はおばあさんになったりネ,酒屋行く時は女中になったり,そうしないと,あやしまれますから。しまいにはあわ食っちゃって,おじいさんとおばあさんと半々に化けたり」
八「危ねえな,オィ」
狸「驚いて化け直りましたけど,家に取りに来る方はまずいです。うちから出たお札が葉書になったとなりますと,親方があやしまれることになります」
八「ああ,そうか。狸の方が考えが深ェな。なんとかなんねえかな,オィ。四円いくらなんだがなァ。じゃ,どうでィ,大入道かなんかになって,借金取りが来たらワーとか言っておどかしちゃうとか,そういうことはできねえかい」
狸「へへへ,どうもそういうことは。私のおじいさんの代に化けたってェことは聞いてますけどね,大入道なんぞ,いまどき馬鹿馬鹿しくてあんなのは」
八「なんでィ,馬鹿に威張ってやがんなァ。だめかよ,オィ。なんとかなんねえか」
狸「そうですなァ」
八「五円ありゃァいいんだけどなァ」
狸「じゃァ,私がお札になるからお使いなさい」
八「なんだ,お前,札になれるのかよ」
狸「ええ,私は札はうまいもんですョ。よくね,札に化けて道端にころがって人間をおどかして,親父に叱られたことがあります」
八「どうやって」
狸「お札になって道端にころがってるんですョ。そうするとネ,ホラ,こんなところにお札が落っこってるなんてんで,拾おうとしますからね,そこんとこを引っかいちゃう」
八「おい,札が引っかくのかョ」
狸「驚きますョ。そいで歯でガッと食いついてやるんですョ。びっくりしましてねェ,腰を抜かす奴ある,真青な顔して逃げる奴ある。それを木の陰で見てみんなで笑ってるんですョ。人間なんてものは愚かで卑しいもんだと思って」
八「おい,おい,あんまりそう人間を悪く言うなョ。俺だって人間だぜ」
狸「あなたは人間というようなもんの,まァどっちかっていえば狸に近い方で」
八「馬鹿なこと言うなョ。そうか,それじゃ一円札を五,六枚こしらえといてくれ」
狸「五,六枚だなんて,バラバラになるんですか。一匹一役ですからネ,どうしてもバラバラでお入用だてェなら,これから穴に帰りましてネ,親戚一同みんな呼び集めまして」
八「おい,いけねえよ。そう狸を連れてきちゃァ困らァな。じゃァお釣銭(つり)はわずかだから,向こうへくれちまえばいいんだからな,五円札に化けろ。五円札に」
狸「ああ,そうすか。化ける手数は同じですからネ,じゃ,どうです,七円の札に」
八「おい,そんな半端な札はねえんだ。五円でいいよ,五円で」
狸「そうすか」
八「じゃァ,早く化けてみてくれ」
狸「あの,こっちを見てちゃまずいんですがネ。こう,手拍子三つお願いします。そのとたんにでんぐり返しをやりますから」
八「おお,そうかい。目をつぶって。なァに,見やしねえ,見やしねえ。じゃ,いいかい,手拍子三つだな。ヨ,ヨ,ヨイ。おッ,いなくなっちゃった。たぬ公,野郎化けられないんで逃げたんじゃねえかい。えッ,そうじゃありません?あなたの膝の前だ?お,おい,いつここにきて化けてやがんだ。うまく化けやがったなァ。こりゃァ,どう見たって立派な札だぜ。へェー,おッ,食いつきゃしねえ,俺は大丈夫だろうなァ。こりゃァうめェもんだ。札になると目方まで軽いなァ。そこが難しい?おう,なんでィ,裏に毛が生えてるじゃねえか。札に毛が生えてるてえのはねえぜ。え,裏毛のが暖(あった)かです?冗談じゃねえやな,シャツじゃねえんだから毛を取れ,毛を取れ。なんだ,毛がなくなったらノミが出てきやがった。エッ,とってください?やだな,本当に。俺,札のノミとったのはじめてだ。オィ,両方同じ紋様じゃねえか。だめだい,どっちか変えろよ。あ,そうだ。ヨシ,ヨシ,おお,うめェもんだな,なかなかどうして。そう回しちゃァいけません?目が回る。札が目を回しちゃァしょうがねえ」
狸「キッ」
八「変な声すんねえ。どうした,え?たたんじゃいけません,たたまれますと腹を押すから小便が?小便はいけねえ。おッ,なんだい,こっちの方が頭です?冗談じゃねえな。札に頭があるとは思わねえな。こうやって持ってるわけにはいかねえから,じゃ,まァ下に置こうじゃねえかなァ。えッ,血が下がるから枕貸せ?札が枕をしちゃァいけねえよ。おい,おい,どこへ行くんだ,どこへ。なに,小便をしてくる?だめだい,化けねえうちにやりねえ。札が濡れちまうじゃねえかよ。おッ,シッ,シッ。待ってろ。来たよ。待ってろ」
【Act Ⅲ】
縮屋(以下,商)「えー,お早うございます。呉服の縮屋でございますが」
八「あ,おう,お前かい。いや,もうお前が来る時分だと思ってな,さっきからここへ狸が,ウン,いや,なんだ,ここ,なんだァ五円置いて待ってるんだ。いくらだ」
商「ヘィ,ありがとうございます。えー,残りが四円三十銭でございますが」
八「あ,そうか,受け取りか。こっちへ貸してみてくれィ。判こが押してあるナ。受け取りをもらえばこっちのもんだ。じゃ,払うからな。えーと,どっちだっけな。そうそう,こっちの方が,こっちが頭だい。さァ,持っていってくれよ。こっちが頭だからな,逆さにしねえようにな。血が下がるとかわいそうだから」
商「ハハハ,ありがとうございます。こんな早くみんないただけようとは思いませんでした。いや,半分でも頂戴できたらと思ってやってきたんですが。ああ,きれいなお札ですなァ。折り目がなくってどうも,手の切れそうなお札で」
八「いやー,手なんぞ切れねえぞ。食いつくぜ。まァいいや,持ってけョ」
商「へへへ,どうも,ありがとうございます。えー,そうしますってェと,これでお釣銭(つり)でございます」
八「ああいいよ,いいよ。お前に随分むだ足を踏ませたからな,江戸っ子だい,ねえ時ゃ払わねえが,ある時はパッと払っちゃうんだィ。釣銭なんぞいらねえ。お前にみんなくれてやるから持ってきなィ」
商「そうですか。それはどうもありがとうございます。じゃ,遠慮なく頂戴・・・」
八「おい,おい,たたむんじゃねえ。よせよ,おい,だめだよ。たたむと腹を押すからお前,小便しちゃうからョ。平らにして懐に入れて持ってきなョ」
商「ハハ,そうですか。たためないお札なんてのはあんまり見たことが」
八「回すなよ,そこでそんなに。目が回るじゃねえか。その,なんだい,早く懐に入れていたわって連れてけよ」
商「いたわって,連れてく・・・どうもご冗談ばかりおっしゃって。では,このまま頂戴いたします。じゃァまた,ご用の節は」
八「ああ,頼むからな。気をつけて帰んなよ。ふふふ,ありがてえ,ありがてえ。とうとうあいつは狸を懐に入れて喜んで帰っちまいやがって。でも待ってくれよ。あいつはまたノン気だからナ,懐が暖かくて寝心地がいいなんて,寝ちまわねえかなァ。札がイビキをかいたなんてったら大変だからなァ。うまく帰ってくればいいけど」
狸「ただいまー」
八「おう,どうしたい。心配してたぜ」
狸「ええ,どうも驚きました。親方いけません。向こうに渡す時に変なこと言うもんですから,あいつは表へ出てね,どうも,あそこに五円札があるわけはねえって言うんですョ。あっしを懐から出してね,天日にすかしてみたり引っ張ってみたりね,脇の下かきまわしたりしてネ,くすぐったくて驚いちゃった。笑っちゃいけないと思いましたからネ,こっちは我慢してましたが,そのうちにていねいに四つに折りたたんで,こんな小さながま口ィ入れてパチン。あっしは腹を押されて,背骨が曲がってこんなになっちゃってネ,とうとうたまりかねてがま口ン中に小便しちゃいました」
八「おい,がま口じゃいけねえな」
狸「そうなったら入ってられませんから,がま口の脇を食い破りまして逃げてきました」
八「うまく逃げられたなァ」
狸「ええ,逃げてくる時,がま口の中にネ一円札が二枚ありましたから,ちょっとお小遣いにくわえてまいりました」
八「おい,おい,札が札をくわえちゃァしょうがねえじゃねえか」