お仲入り(into四代目橘家圓喬)

お仲入り  Vol.1
“妖刀村正”四代目橘家圓喬
  慶応元(1865)年〜大正元(1912)年 <東京>
文楽志ん生圓生という昭和の三大落語家をして,口を揃えて「名人だ」と言わしめるのは橘家圓喬ただ一人です。ただ,大変な皮肉屋という性格が災いして,没するまで最大の名跡である三遊亭圓朝を継ぐことは出来ませんでした。けれど自身の名前もまた最大級の名跡となり,畏れの念から未だにこの名を継ぐ者はいない状態です。


1.正宗に破門された村正
伊勢に千子村正という刀鍛冶がいました。もと岡崎正宗の弟子だったのですが破門されています。本当に正宗の弟子だったのかは疑問の声もありますが,落語の枕ではこういう形になっていますので,今回はそのつもりでお話しさせていただきます。
「えぇ,村正という人は,もと正宗の弟子だったんですが,斬れることばかり考えていたんですナ。それだから正宗に破門されて,仕様がなくなっちゃって,今度は包丁を作ることにしましたんで。けれども,売れないですよこりゃあ。大根切ろうと思ったらマナ板まで切っちゃうン」
刀は本来,身を守るものだそうです。“正宗”がその典型でしょうか。それに対して“村正”は妖しい光を放ち,抜けばとにかく誰かを斬ってみたくなる妖刀でした。先ほどのセリフは落語においての話ですが,イメージを掴むことが出来ますね。
圓朝が“正宗”,弟子の圓喬が“村正”に例えられています。榊原鍵吉という剣術の達人の評です。


2.「あれは落語じゃない。ただのお喋りでげすな」
では,圓喬はなぜ皮肉屋といわれていたのでしょうか。いくつか例を挙げてみたいと思います。
当時,松永和楓という有名な長唄の人がいました。この人が寄席に出た時,そこの席亭(主人)は看板に大きく和楓の名を書いたのです。圓喬よりも目立っていたのですね。圓喬は怒ります。そしてその日,和楓の前に舞台に出た圓喬は一時間かかる噺を選んだのです。終わったのが十一時ほど。それがまた大変上手かったので,お客も和楓を待たずにガヤガヤ帰ってしまったそうです。
三遊亭三福という落語家は着物に凝っていた人でした。先代正蔵の師匠です。その時分に一番高価な西陣のお召しを着て,楽屋に座っている。そこへ圓喬が入って来ます。その着物を見た圓喬は三福の袖をとり「西陣ですね。いいお召しですな。今の噺家はいいナリをする。ナリはいいけれども・・・」と言って顔をチラッと。三福は冷や汗が出たそうです。
そして最も有名な一つが,高座に上がっている者の噺を楽屋で聴いていた圓喬が一言「何です。ありゃ落語じゃない。ただのお喋りでげすな」。そばには言われている噺家の弟子がいたのに,です。その弟子の一人として,そこに後の六代目三遊亭圓生もいました。


3.伝説の『榛名の梅が香』『柳の馬場』そして『鰍沢
彼らはそれでも圓喬に逆らえませんでした。優れた芸人だったからです。
続き物の噺である『榛名の梅が香』を圓喬が寄席で毎晩やっていた時は,楽屋にいた他の芸人は皆,仕切り戸にへばりついて聴いていたといいます。圓喬が休席で続きが聴けない時は楽屋中が溜め息をつくという塩梅です。長編物ならば別の場合も同じ様子だったのかも知れません。
『柳の馬場』という噺があります。目の見えない按摩さんが,この人は強がりを言う癖があるのですが,ある日,そのことを憎く思った殿様に悪い冗談をされます。拍子で柳の木にぶら下がった際,殿様に「手を放すな。下は谷間だぞ」と嘘をつかれ,按摩さんは必死で枝を握ります。圓喬演ずるこの時の按摩さんの仕草が真に迫り,これを子供の頃に見た前述の圓生なども,演目が多い人ながらこの噺を出すことは避けざるを得なくなりました。
落語史上の名人の逸話といえば『鰍沢』の話です。これは冬の物語ですが,圓喬はなんと真夏に演じたのです。冷房もない当時の寄席のお客は,うちわや扇子でパタパタ扇ぎながら聴いています。噺が佳境に入ります。主人公が大雪の中を逃げ回る。その時,お客は一人として自分を扇ぐ者はいなくなり,それどころか着物の襟を合わせたといいます。


4.意外なエピソード
ある前座が,圓喬の噺を聴いていて不審に思いました。そして楽屋に戻った圓喬に「師匠,噺の中で侍が“往来は左側を歩け”と言いましたが,そういうことは明治になってからじゃないんですか?」と訊いたのです。しばらく無言だった天下の圓喬は,突然姿勢を正し「ありがとうございます」とその前座に手をついて礼を述べました。
若手の噺家が『道灌』(第1回目に取り上げたものです)をやっているのを圓喬が楽屋で耳にし,この人が終わって下がると「そうやっちゃいけない」と,本人の前でこの噺ををまるまる一席演じたといいます。当の圓喬は次の寄席へ行かなければならない時間だったというのにです。


5.結論!
かなりこってりした文章になってしまいましたw
こういう話もあります。圓喬が肺が悪くて,寄席でお湯を飲むために自分の湯呑みを持っていたそうです。他人にうつらないよう,寄席に備え付けの物を使わない配慮ですね。その湯呑みですが,圓喬がいない時に,若手の噺家はこぞってその湯呑みに残ったお湯を飲んだそうです。病がうつってもいいから,あやかりたかったのですね。
圓喬は本当に芸道一筋の人でした。プロとして一級の芸人だったと思います。
“正宗”である圓朝と一番違うところはどこでしょうか。私の考えではスケールの大きさです。圓朝は芸術の域に入りました。芸人の枠を超えたのです。ドストエフスキーやモネと異種格闘技戦をしても対等にわたりあえたのでは?
それは単に圓朝が『牡丹灯篭』や『真景累ヶ淵』といった創作をしたからだけでなく,舞台の上でも現れていたはずです。山岡鉄舟に最期までついて禅も学んでいました。
圓喬は技術に関しては,師をしのいでいたのかも知れません。乱暴な言い方ですが,そのことだけに集中していたからです。
この二人はどちらが職業落語家として正しかったのでしょうか。私はどちらも正しいと思います。落語にとって,この二人の存在は応病与薬だったのではと考えます。